夏目漱石作「夢十夜」から「第一夜」「第六夜」を、つづき著者のものを一つ掲載する。

 

 

 天才とも称された「文豪・夏目漱石」は数多くの素晴らしい作品を産みだしている。本日はその中から「夢十夜」の中におさまっている「第一夜」と「第六夜」を先ずはご紹介します。

 十夜の内前半の作品は「こんな夢を見た」で始まっている。

 どんな意図で書き始めたのかは分からないが、大体小説というものは理屈ではなく、読む者の感性の違いによりその感想も異なるのだろう。

 芸術とはそんなものなのかも知れず、進化した宇宙の文明でも技術力は到底比較にあたらず優れているが、彼らが相対的な時間の差を超え絶賛するものは、人類のような生命体に於ける感情ではなく「感性」、即ち芸術、と言えそうだ。

 明治の世に、漱石が主となって開かれた木曜会には文人達が集い、芥川龍之介もその中の一人であるが、漱石を師と仰いでいたようだ。

 芥川は自作「鼻」で漱石に「・・君、こんなものが幾つも書ければ素晴らしいじゃないか・・」と賛美された。

 また、芥川はある時、漱石にこんな事を言った。

「・・(小説の神様と言われている)志賀直哉のようなものを書いてみたいのですが・・」

「・・君は君で・・それでいいんじゃないか・・」

また、十夜と称し全く趣(おもむき)の異なった短編作品を次々に書いた事を、星新一と並びショートショートの第一人者と称される阿刀田高はこんな事を。

「・・此れだけ異なった短編を次々に書くという事は、長編を書くよりも大変な事だ・・」

 

 漱石の頭の中までは分からないが、十作を書こうと思い、書き始めた第一夜、これはあくまでも個人の感想で勝手な解釈だが「・・美しい絵画やファッションのように美しく・・満天の星の光のようなモノを感じる・・」何か、星夜と言えば、ゴッホの絵画を思い出すが・・。

 おそらくは、漱石も書きだしに自らの創作の狙いを表現したかったのではないだろうかと思ったりもする。

 書き始めて中盤の第六夜は、この作品の中でも、最も文学的且つ芸術感という意味合いがはっきり感じられると共に、世評の様な見解も登場し、細かな文章表現にまで緻密な表現力を感じさせてくれ本当に素晴らしい。

 まあ、読者の勝手な呟きは此処までとし、早速、第一夜、とんで第六夜を載せる。青空文庫より。

 

 

第一夜


 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元にすわっていると、仰向あおむきに寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭りんかくやわらかな瓜実うりざねがおをその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、くちびるの色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然はっきり云った。自分もたしかにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上からのぞき込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼をけた。大きなうるおいのある眼で、長いまつげに包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒なひとみの奥に、自分の姿があざやかに浮かんでいる。
 自分はとおるほど深く見えるこの黒眼の色沢つやを眺めて、これでも死ぬのかと思っ
た。それで、ねんごろに枕のそばへ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうに※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
 じゃ、わたしの顔が見えるかいと一心いっしんに聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
 しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片かけ墓標はかじるしに置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。またいに来ますから」
 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
 自分は黙って首肯うなずいた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓のそばに坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
 自分はただ待っていると答えた。すると、黒いひとみのなかにあざやかに見えた自分の姿が、ぼうっとくずれて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長いまつげの間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
 自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きななめらかなふちするどい貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿しめった土のにおいもした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
 それから星の破片かけの落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちているに、かどが取れてなめらかになったんだろうと思った。げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
 自分はこけの上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石はかいしを眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定かんじょうした。
 しばらくするとまた唐紅からくれない天道てんとうがのそりとのぼって来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
 自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、こけえた丸い石を眺めて、自分は女にだまされたのではなかろうかと思い出した。
 すると石の下からはすに自分の方へ向いて青いくきが伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりとゆらくきいただきに、心持首をかたぶけていた細長い一輪のつぼみが、ふっくらとはなびらを開いた。真白な百合ゆりが鼻の先で骨にこたえるほど匂った。そこへはるかの上から、ぽたりとつゆが落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露のしたたる、白い花弁はなびら接吻せっぷんした。自分が百合から顔を離す拍子ひょうしに思わず、遠い空を見たら、あかつきの星がたった一つまたたいていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

 

 

 

第六夜


 運慶うんけい護国寺ごこくじの山門で仁王におうを刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評げばひょうをやっていた。
 山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹がななめに山門のいらかを隠して、遠い青空までびている。松の緑と朱塗しゅぬりの門が互いにうつり合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障めざわりにならないように、はすに切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出つきだしているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。
 ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。そのうちでも車夫が一番多い。辻待つじまちをして退屈だから立っているに相違ない。
「大きなもんだなあ」と云っている。
「人間をこしらえるよりもよっぽど骨が折れるだろう」とも云っている。
 そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王をるのかね。へえそうかね。わっしゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」と云った男がある。
「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊やまとだけのみことよりも強いんだってえからね」と話しかけた男もある。この男は尻を端折はしょって、帽子をかぶらずにいた。よほど無教育な男と見える。
 運慶は見物人の評判には委細頓着とんじゃくなくのみつちを動かしている。いっこう振り向きもしない。高い所に乗って、仁王の顔のあたりをしきりにいて行く。
 運慶は頭に小さい烏帽子えぼしのようなものを乗せて、素袍すおうだか何だかわからない大きなそで背中せなかくくっている。その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
 しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。仰向あおむいてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王とれとあるのみと云う態度だ。天晴あっぱれだ」と云ってめ出した。
 自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、

すかさず、「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在だいじざいの妙境に達している」と云った。
 運慶は今太いまゆ一寸いっすんの高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯をたてに返すや否やすに、上

から槌をおろした。堅い木をきざみにけずって、厚い木屑きくずが槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっぴらいた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。そのとうの入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念をさしはさんでおらんように見えた。

「よくああ無造作むぞうさに鑿を使って、思うようなまみえや鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言ひとりごとのように言った。するとさっきの若い男が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中にうまっているのを、のみつちの力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王がってみたくなったから見物をやめてさっそくうちへ帰った。
 道具箱からのみ金槌かなづちを持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風あらしで倒れたかしを、まきにするつもりで、木挽こびきかせた手頃なやつが、たくさん積んであった。
 自分は一番大きいのを選んで、勢いよくり始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪をかたぱしから彫って見たが、どれもこれも仁王をかくしていなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王はうまっていないものだと悟った。それで運慶が今日きょうまで生きている理由もほぼ解った。

 

 

 勿論、比較するつもりなど毛頭なく、大人に憧れた子供のような気持ちで著者が書いた、第十一夜及び・・第十二夜は時間の都合で・・明日に載せる。

 

夢十夜 第十一夜

こんな夢を見た。

「蝋燭の火が・・」

 何処から吹き込んで来るのか、僅かな風に蝋燭の火が揺れている。
 昔から、蝋燭を人間の寿命に例えるという話がある。
 目の前には何本もの蝋燭があるのだが。
 若し、此れが寿命に関係するものであれば、私は其の蝋燭の火が消えたりする事で人の生死を知る事が出来る訳だが、一体何の因果があってそんな事に係り合っているのかと疑問に思う。
 部屋の中が暗いからそんな事を考えるのかと思い、障子を開けた。
 目の前の蝋燭が見えなくなった。
 やはり、幻だったのかと思った時、玄関から人の声が聞こえた。
 私が重い腰を上げ玄関まで歩いて行くと、紫地に白い大きめの芯の赤が目立つ花が幾つも描かれている浴衣を着た女が立っている。
 異常なくらいに色の白い細身の女で驚くほどの別嬪だ。
「此方は物書きの方のお住まいだと伺いましたのですが・・」
「如何にも、私は物書きだが、さて何の御用でいらしたのかな?」
「実は私をお話の中に書いて戴きたいと思いまして」
 何やら事情がありそうな様でもあるし、玄関では何だからと部屋に上がるように勧めたのだが、我ながらどうして縁も無い人間が、まさか我が著書の愛読者でもあるまいに・・。
 女性は自分は安形澄子だと名乗った後に、作品の中に盛り込んで貰いたい理由を話し始めた。
「私は、夏目漱石の作品の中で那美という女性が自分が池に身を投げて浮いている姿を絵に描いてくれと言う、画家は物足りないから絵にならないと言ったが、最後に出征兵士を見送る那美の顔に「憐れ」が浮んでいるのを見て『それだ、それだ、それが出れば絵になりますよ』と那美の肩をたたき『余が胸中の画面はこの咄嗟(とっさ)の際に成就したのである』との部分を拝見してから、絵では無く文章の中に盛り込んで貰いたいと思いまして」
「絵では無く文章に・・何か思いついた理由などはあるのですか?」
 澄子は私の顔は見ずに、何故か憂いの浮かんだ表情で庭を見ながら、「私はもうじき嫁いでいくのですが、その前に想い出にと思いまして」
「ほう、嫁いでいかれるのならおめでたい事ではありますが、それなら写真屋に行って記念写真を取って貰った方が宜しいのでは?」と、自分なりの考えを話してみたのだが、どうやら其の縁談というのは、事情があって本人の意思ではない様だ。
「其れでは、あなたは縁談に乗り気がしないが断れる事情では無いから心境を書き写して貰いたいとでもお考えなんですか?」
 澄子は今度は私の顔を見て頷いた。
 其れでは深い事情や心境などを聞こうと思ったのだが、澄子は懐から紙を出すと私に見せる。
 私は其の紙に書き綴ってある文面を読みながら、「此れは・・なかなかお上手ですね。私が書き改めるまでも無く、此のままでも立派な短い作品になっているのでは?」と尋ねると、澄子は、「そう仰って頂いて大変有り難いのですが、貴方の文章の間に挟み込むようにして頂ければ存分なのですが」と言いながらまた庭の池に目を移した。
 私は其れで良いのかと念を押したがそれでいいと言う。
「其れでは早速今晩から書き始める事にしましょう・・何か、庭に興味がおあり何ですか?」
 澄子があまり庭に関心を示す様だから、私も澄子と庭を交互に見る様に聞いてみた。
 澄子は縁側に視線を移すと、「宜しかったらご一緒にお庭に出てみませんか?」と謂うから、私は「ええ、こんな庭で宜しかったら」と、縁側から下駄を履こうとして気が付いた。
 女物の下駄が既に揃えておいてある。
 まさか澄江が素早く置ける様な暇は無かったし、一体誰が並べてくれたんだろうと思いながらも、何となく嬉しい様な気がした。
 私をそんな気持ちにさせたのも、澄子の美しさ故かという思いが脳裏を掠めたし、さて、庭に出てどうするのかという事などはどうでも良い様な気がした。
 二人で庭の芝の上を池の縁迄歩いて、風も無く透き通った水面を見た時に、澄江が「綺麗な池だこと、中に入っても宜しいでしょうか?」と言うので、私は少し驚いたが、「どうぞ、この時分だから水も冷たくは無いでしょうから・・」と下駄を脱ぐ澄子の後ろ姿を見ていた。
 澄子は浴衣の裾を端折る様にすると段差のある池の端から慎重に浅瀬に入って行った。
 私は色の白い脚が水面に波を作っていくのを見て、何とも言われぬ清楚な想いを感ぜざるを得なかった。
 私は池の畔で此れは文になるなと思い、ゆっくりと池の真ん中あたりまで行って此方を振り返った澄江を見つめていた。
 澄江は私に微笑んだまま、池の中に佇んでいる。
 私が澄江から目を反(そら)して、脚もとの水面(みなも)を見た時に、何やら水中に波に揺れる顔の様なものが見えたから、何だろうと・・。
 この池には僅かばかりの小魚や小さな亀がいるだけで・・、「ひょっとしたら、亀が水中に潜ってしまって甲羅が顔の様に見えたのではと思ったが、亀は水面を泳ぎはするが水底には・・。
 魚が優雅に泳いでいる静かな池の少し黒っぽい水中に・・、どうしたのか年配の男の顔の様に見えて仕方が無い。
 澄江が此方を見て、「何か作品のお考えでも浮かんだのですか?」と言いながら一瞬憂いに満ちた顔で、其の顔の様に見える影に視線を移した時、幾らか風が出て来たようで池に細かい波が立ち始めた。
 水中の影のように見えたものは波に掻き消されるように消えていた。
 私は暫し其の事に囚(とら)われていたので、澄江が此方に近付いて来て池から上がろうとしている事に気が付かなかったが、既に私のすぐ傍まで来ていた澄江は私の目を見て微笑みを浮かべ首を傾(かし)げた。
 私は恰(あたか)も子供に何かをねだられた様かのような気がしてからはっと気が付き、手を差し伸べて澄江の手を取りそっと引っ張り上げようとした。
 澄江は私の手に摑まり芝迄上がろうとしている。
 突然動きがスローモーションに・・私は、澄江の脚が・・そして、一瞬真っ白な肌に薄っすら青筋が浮かんでいるかのような腿が露わになっているのを見て息を呑んだ。
 私は何か悪い事をしたかのように芝迄上がった澄江の目を覗き込むように見た。
 澄江が・・濡れているから、私は我に返って縁側に戻ると端に置いてある籐の籠からタオルを取り出すと池の縁迄駆け寄って澄江に渡した。
 私は考えも無く二枚持って来たのだが、一枚を手に取った澄江が自らを拭きながら何気なく私の顔を覗き込んだ時、私はもう一枚のタオルで無意識のうちに澄江の脚を拭いている自分に気付き・・手が止まりそうになった。
 二人は縁側から座敷に上がり卓台の両側に向き合うように座った。
 陽は暮れかけようとしていたから障子を閉めようとしたが、ハッとある事に気が付き後にする事にした。

 私は池の底の顔の様なものがまだ気になっていたのだが、おそらく私の見間違いではと考えていたら、澄江がそろそろお暇(いとま)しなければと言うので、玄関まで送って行った。
「文章は書いておくから、また明日にでも来てくれ」と言ったら、澄江は、「宜しくお願い致します」と頭を下げ、門から出ると夕暮れの道を忙しそうに通る人々に紛れる様に見えなくなった。
 部屋に戻った私はもういいだろうと呟きながら障子を閉めた。
 やはり、蝋燭が何本か見える。
 朝方と違い、外は風が出て来た様だ。
 障子の隙間から入りこんで来る風に蝋燭の火が揺れている。
 気持ちが悪い様な気がしたから、部屋の電燈を付けようとした。
 高さが疎(まば)らな蝋燭の短めの一本の火が風に揺れると・・ふと消えた。
 その瞬間私は、即座に電燈を点けた。

 翌日の昼頃までに文章を書き終えたから、午後の何時まで暇を潰していたか・・、陽が落ちようとする頃、玄関から覚えのある声が聞こえた。
 白地に花柄の浴衣を着た澄江が、昨日とは打って変わった明るい顔をして、玄関燈の灯りに溶け込むように立っている。
「原稿が出来たから、ああ、上に上がって」と私・・、澄江と奥の部屋の卓台の両側に座り、原稿を渡した。
 澄江が其れを読み始めた時、庭の上空の模様がおかしくなってから風が強くなってき、雨も激しく降り始めた。
 私は障子を閉めた。
 しまった・・と思ったのだが、障子が閉まっても昨日の様な蝋燭は見えなかった。
 部屋の電燈の下(もと)で、熱心に原稿を見ていた澄江が、一通り読み終え、顔を上げて私に話をし出した。
「実は、昨日お話をした縁談の話なんですが、破談になったんです」
 私は澄江の顔を見たが、目からは昨日の様な憂いが窺えないから、どうしたんだろうと思った。
 澄江はそんな私の好奇心を満たす様に話を続けた。「其の相手の方と言うのは高田金蔵と言いまして町の金貸し屋さんを営んでおりまして、奥様がいらした当時から私は妾として囲われていたのですが、其の奥様が亡くなられてしまったので、私を正式な妻としてめとるという事になったのです。其れが昨日心臓の発作とかで急に倒れたまま二度と息を吹き返す事は無くなったのです。ですから、私は言ってみれば自由の身というか・・」
 高利貸の妾から後妻の話まで、澄江本人は望まぬところだったのだが、親の借金の為に仕方なく嫁いでいく寸前に運命は変ったという事のようだ。
 ところで、どうして私のところなどに祝言の前日に来たのかと聞いてみたら、 以前から私の事は知っていた。其れは、澄江も同じ様に物書きになりたいと思っていたからということと、漱石谷崎潤一郎田山花袋などや私の著書が好きでよく読んでくれていたそうで、自分も物書き志望で幾つも作品を書いていたという事だった。
 私は、天才漱石や文豪と名を並べられるなどはとんでもない事でと困惑したのだが、其れで昨日の澄江の文章が優れたものであった理由が分かった。
 もう一つ、あの水底の顔と、火が消えた蝋燭は幻であったとし、高利貸の死と一致した偶然が奇妙に思えた。

 二人が話に夢中になっていた時、雨は一層激しさを増し、雷鳴が響き・雷光が鋭く閃きだした。
 私は急いで障子の更に外のガラス戸と雨戸を閉めた。
 私は縁側から近い澄江の向かいに座りながら、「梅雨が別れを告げている様な最後の嵐だ。此れで暑い夏が来るな・・」と。
 澄江が私が座るのを見届ける様に、「あの・・文章を一部分変えて貰えませんか・・」と、私が、「どの部分かな?」と尋ねた。
 私は澄江の文章は殆ど覚えていたのだが、一体どの辺りを変えるのかと思い、自分でも此処だろうかと思われる部分を頭の中に描いていた。
 漱石は兎も角、谷崎潤一郎の「痴人の愛」や田山花袋の「蒲団」には、共通する主人公の痴情といっても良さそうな情念や行動が描かれている。
 果たして詰まらぬことを如何ように・・と思った時、澄江が書き改めたい文面を述べた。
「如何様にもならぬと思えば、憂いは脳裏を駆け巡るだけで無く、身にも其の感情を植え付けようとする」と言う箇所を挙げた。
「晴れて自由の身になればこそと思う意識は解放感を乗り越え、我が胸を騒がせると身に由々しき情念を齎そうとして・・」
 私は成程と思う一方、「『蒲団』の終わり頃に主人公が去って行った女性の夜具の匂いを嗅ぐという部分があるが・・、また『痴人の愛』でナオミズムと言う言葉が巷で流行したのだが、其れは主人公が女性を愛玩するという情念・・。
 何れも男性からして女性に求めた欲求とみられるのだが、女性からしてとなると、「我も子供では無いか・・」・・と思い浮かべていた時。


 一段と雷光が光るに遅れ、まるで地を突き上げるような雷鳴が轟きわたった。

 停電の様だ。部屋の電燈は消え、闇が全てを支配したようだった。


 真っ暗闇の中で、微かに白いものが私を見ている・・。
 私は「・・良かったな・・」という言の葉が胸に染み渡っていく安堵の念とは別に、何かが脳裏を掠める様(さま)を感じた。
 すぐに行燈(あんどん)に灯りを灯もした。
 あの蝋燭の炎が消えた時の為に・・行燈の油は満たされており・・傍に置かれていたマッチに手を遣るのには訳も無かった。
「・・あの・・此れからも教えて頂けますか?」
「・・いや、貴女には既に・・天賦の才が・・」
「・・え?才とは・・物書きの・・という意味でしょうか?」 
「然有り」
 瑞々しい一輪の花が・・一段と・・。
 彼女は週に一度ほどやって来ては、私と共に漱石の「夢十夜」の続きを考えるようになった。
 弟子というのでもないのだが・・今までの不遇な身から見事に立ち直り・・物書きの才を見せてくれているような気がする・・。
 ああ、ついでなのだが、彼女がこさえてくれる食事は私にとり、正に楽しい夕餉とでも言おうか・・まあ、彼女が家庭を持つまでは見守ってあげたく候(さ~そ・う)らえ・・。


 梅雨は、不意の嵐を伴って一層激しく、そして本意に委ねるが如く開けていこうとしていた。 


 (参考迄に、少し難しい言葉と思われるかも知れないが、文中の「然有り」とは、「然(さ)有(あ)・り」で、そのとおり、そうである、という意味の言葉であり、眠狂四郎の様な武士なら「左様~さよう」とか「如何にも」と使用するのと同意語と思って良いだろう。信長の時代も良く使われた、然にあらずは、逆に、そうでなし・・)

 「Staggering Sway Steps 邦題 よろめきそうな Sway Steps」 sway は別名 キエンセラという、スタンドナンバー、本来はマンボのリズムだが、生憎手に入らず、間に合わせのビギンで済ませたので、おかしなモノに・・。

 

 

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