Justa excusatio est  邦題 たった一つの言い訳

 

 

 銀座通りを歩いていてスマフォが振動した。
 三田茜から、話があるので今晩の夕食を一緒にどうかと。

 


 池野洋二と茜は同じキャンパスの学友だったが、彼女はミスコンで優勝し女優になった。
 彼女は学生時代から他の女性達に一目置かれた存在だった。
 というのも、其の容姿の美しさから画家のmodelや写真のmodelなどを依頼され、着物姿で其れに応じる事が少なくなかったから。
 そういった存在の彼女は、忙しい時間に追われ講義に出る余裕も無かったのは事実。
 其の当時は二人の立場というものにつき、特段のこだわりも感じない友人に過ぎなかった。
 其れで、洋二が彼女の分まで講義のノートをとっては時間が許す限り二人で共に復習を。
 どちらかと言えば気の優しい洋二としては、兎に角彼女が一緒に卒業できなければ?と。
 また、そんな洋二の行動を、将来を約束されている様な女性からすれば、通常は余計な事は必要無いからと断りそうなものだ。
 実際、彼女は既に眩しいライトを浴びた世界の女性とし、洋二の親切心は理解できるものの、聊か戸惑いを感じていたのかも知れない。
 おそらく百人中百人がそう言った立場であれば皆同じ様に考えるだろう。
 だが、彼女が一般的な女性と異なっていたのは、露骨にそういう態度を示したり、洋二に迷惑であるかのような言葉を掛ける事はしなかった。
 其れが、将来的に却って洋二を傷つける事になったとしても、彼はそうなればそれで良いと考えていた。
 かと言い二人の間に恋愛感情が存在していた訳でもなく、洋二は純粋な友情で結ばれているだけと思っていた。
 大学は名門と言われていたが、地方から上京した洋二に較べれば、彼女は田園調布に実家があるお嬢さんであるし、幼稚舎から大学までエスカレーター式に一流路線を歩んで来ていた。
 偶々同じ学部であって、一年の語学の授業の時に第一外国語英語、第二外国語Germanyクラスに属したのが知り合うきっかけになっただけ。
 その当時は同じクラスが約30人程の学生で構成されており、他の学友とも分け隔てない交流の場だったのは言うまでもない。
 一~二年は日吉キャンパス、三~四年は三田キャンパス。
 ところが、三年時に彼女の個性が花咲きそんな変化が生じた。
 洋二のそんな奮闘があったせいもあり、彼女は他の学友と共に卒業する事が出来た。
 其処から先は、彼女は女優として業界入りし、洋二は、一旦は実業界に入ったものの・・本心は・・物書きとなる事が頭にちらつく。
 二人は別々の路線を歩む事になり、偶には連絡を取り合う事もあったが、忙しさに追われるに連れ、其々の世界で仕事に集中せざるを得なかった。
 更に其々の仕事に慣れた頃、洋二は兼ねてからの念願であった物書きの道を歩み始めた。
 其れでも、洋二は彼女の家の近くを通った際、懐かしくなり思わず立ち寄るなどという事もあった。
 彼女の両親は学生時代の洋二を知っているのだから歓迎してくれ、珈琲をご馳走になりながら彼女の近況を聞いたりした。
 何せ、洋二が物書きになって最初に書いた小説のmodelは彼女という事で、両親も其の事を知っていたくらいだ。
 modelと言えば、彼女が女優になる前のエピソードは幾らもある。

 

 当時、彼女が美しいからと、もっと華やかな世界で活躍したらどうかとの誘いもあり、彼女はしばしばその様な誘いに耳を貸す事も・・。
 女優になる以前からmodelとして、マスコミで取りあげられた事もあった。
 また、写真家の中には、彼女の写真集を作成し売り出そうと考える者も・・。
 写真家にせよ画家にしても、彼女をmodelにする事で、彼女の美しい姿を世に知らしめる狙いと、且つ自らの名声も同時に評価させようと思うのも無理もない。
 そして・・彼女はmodelだけでなく・・女優業をも志すようになった。

 


 二人が卒業をしてから、連絡を取り合っていた時代があったが、そのころ、洋二はまだ一介の物書きに過ぎなかった。
 二人で、互いに幸あれと湯島天神にお参りに行った事もあったが、洋二は物書きを始めたばかり・・まだ収入を稼げるとまでには至らなかった。
 思わずストーリーが浮かび書き始めたり、作品の路線を絞ってイメージを沸かせるなど・・洋二は洋二なりに惜しみない努力を捧げたが・・。
 何れにしても世に名を売るまでには計り知れない程の時間がかかるだろう。
 また、話は代わるが・・通常物書きが、自らの作品のmodelになって貰うのにはそれ相応の相手の承諾と対価が必要となる。
 著名な写真家などはその点何とも無い事であろうし、逆にmodelにしてくれと依頼される事も少なくはないだろう。
 世の中、地位・名誉・金銭などが絡み合いながら、男女の中が其れ相応に結びつくという事もあるだろう。
 だが、茜は自らの身分にも拘らず、洋二のmodelになる事を喜んで引き受けてくれた。
 そういう点では美しさだけでなく、奢る事のない優しさも併せ持った女性と言えた。
 ところが、世の中は彼女のその様な優しさにも拘わらず、必ずしもその思いを汲もうとするわけではない。
 雑誌などでも彼女の名が頻繁に見られる様になり、何時の間にか彼女は不動の地位を・・。
 書店に行けば彼女の写真集が並び、絵画でも彼女は人物画の対象として依頼されるなど・・。
 彼女は、既に、一流のmodelであり、また女優でもある道を登り始めていた。
 
 

 
 
 


 マスコミでは最早記事にする対象とし、彼女は欠かせない存在。
 其れがmodelから女優が本業になるに連れ、立場は増々好転して行った。
 女優としては、最初の主役作品が評価をされてから、次々に撮影の機会が増えていく。
 押しも押されもしない大女優を目指し、まっしぐらに進んでいた。
 やがて・・当然ながら・・其れに連れ、結婚話なども出始める。
 もうその時には・・茜が大抵の事を選択する立場になっていた。
 果たして・・そのお相手は・・といえば、業界人だったり、実業家であったり・・と、何人もの候補の名が並ぶ・・。
 其れを茜が相手を選択し、一言、「お受けさせて戴きます」と言えば、誰も止める事はできないのは尤も・・。
 業界の人間絡み故。マスコミなどは、寧ろその結論が何時で・・どうなるのか・・をスクープしたい。
 彼女自身の結婚に関する意思とは別に、彼女と結婚を希望する複数の男性が凌ぎを削る事態になっていた。
 誰にせよ、大女優が業界人ないしは相応の男性と結婚するのは目出度き事と思うのは当然。
 ・・彼女はふと考える。自らの心の何処かに・・洋二との想い出が存在する・・だが、業界人であるからには・・それ相応に祝福される結婚が理想であるのも至極当然・・。
 そんな時、洋二はふと彼女の実家に立ち寄る機会があったのだが、彼女の家族も同様な心境のよう・・。
 或る意味、家族としては、勿論、本人の意思が最優先なのだが・・洋二との過去の事も気にしてくれていたようだ。
 では、洋二はと言えば、
「自分には・・今の茜を幸せに出来るなど無理というもの・・」
 という心境しか浮かばず・・。
 本心がどうあれ、彼女と結ばれたいなど・・今の身分では到底口に出せない。
 其れは既に今となっては禁句であり・・結局、茜宛の送信文に・・、
「。。何か彼方此方から良い話があるようでおめでとう・・」
 と茜の幸せを願う言葉で結ぶしか無かった。
 その時点で、洋二の存在は単なる一人の同窓生にすぎなくなった。

 

 

 茜を誰が射止めるのかは、最早、巷の話題とし、大事となっている・・。
 茜は幾つもある目出度い話から最も合点がいく一つを選んだ。
 その選択肢や過程やらを、マスコミが更に大袈裟に取り上げている。
 「・・美人女優と・・業界人に限らず、実業家や著名な写真家との縁は何処に?・・」
 更に話は二転し、実は監督からのお誘いがあった事も薄々知られる事となっていた。
 取捨選択は本人の問題であるが、業界の過去の例をとれば、監督だから必ずしも良い・・とも言えない。
 宝塚歌劇団から大映入りした八千草薫などの様に監督と結婚をしおしどり夫婦のまま、惜しまれつつ亡くなったという例。
 かと思えば、人類の欲望が表面化し、高齢の監督から主役の座を貰う為に大部屋の女優が関係を持ったなど・・。
 つまりは・・案外そう簡単な業界と言えそうもない・・。
 その点だけに焦点を合わせれば・・茜は既に主役の座を貰ったも同然の地位にある。
 茜は、その選択権を既に手に入れていた。
 いよいよ・・マスコミに発表・・となった。
 眩しいばかりの多くのフラッシュが焚かれる中、男女二人の笑顔が窺える。
 都内の著名なホテルに於いて結婚式が行われる事になった。
 

 

 

 当日になる。
 大勢の列席者を呑み込んだホテルは・・諸氏の笑顔に包まれている。
 夫婦の誓い。
 司会も業界の大物が行っている。
 式次第は順調そのものだ・・。

 

 


 お色直しの為、茜が控室に戻る事があった。
 控室に置いてあった茜のバッグの中から・・茶袋が顔を覗かせた・・。
 

 


 片や・・既に祝電も・・式場に・・。
 後は・・タイミング良く読まれるだけ・・。
 其の中に・・宛名だけで・・送り主の記載が無いもの・・。
 

 

 

 話は遡るのだが、茜の家に洋二が立ち寄り本人と話をした際、彼女が誰かと結婚するなどという事は・・洋二の胸の中で、十二分・・動かぬ存在・・。
 洋二としては、如何しようも無い事であり・・自分は心底・・彼女の幸せを祈ろうと・・。
 ・・茜に、
「・・貴女が幸せになる事は僕が最も願っていた事だから・・」
 と祝福した。
 其の時の洋二の心中は・・、
「・・二度と茜と会える事が無くとも・・せめて・・自分はもう一度茜をmodelとして小説を書きたい・・」
 との事だった。
 以前から、茜に、
「・・君をmodelにして書いても良いだろうか?・・」
 と告げている。
 今は、其れを口に出すなど・・及びもつかなく・・。
 学友としての二人なら、其れは・・結構な事である。
 そして、今、花嫁である彼女に・・良き縁談に水を差しかねないような事をするなど・・とんでもない・・。
 既に・・第一作は書き終えている。
 何れにしても小説であるのなら・・。
 丁度彼女の結婚式の前日だった。洋二は其れをもう一度読み始める。
 実に長い間の・・いろいろな出来事が・・セピア色した時間と共に・・過去へ過去へと・・流れて行く。
 書き上げた作品を、落ち着いたら茜に読んで貰えるだけで幸せだと思う。
 二人が知り合ってから、最初の一冊が出来るまでの間にふたりの間にどのような思いが飛び交った事か?
 親しくなり・・楽しく過ごしたあの頃・・彼方此方に行っては・・何でも親しく話し合った・・。
 しかし・・筋書きは・・少し違う・・。
 二人が結ばれ・・きっと洋二は茜を幸せに出来るなど・・一体・・?
 ・・実に様々な想い出が二人の間の宝物として存在した過去の事を・・書き記した・・。
 小説とし、男女の恋愛ものとし、忠実に描かれている。
 登場人物は、実名では無い。
 だが・・茜にだけは、其れがあの頃の二人である事・・きっと分かって貰えると・・。
 ところが・・其処で事実と物語の相違・・それが・・くるくると・・回転しだしている・・。
 情けないことに・・寂しさだけが残っているとは・・あってはならない・・決して・・。
 たかが・・都合の良い思いなど・・。
「・・若し、今でも茜の記憶の中に自分という存在・・?いや・・何という甘ちゃんなんだろう?迷惑極まりない・・何処まで愚かなのか・・」
 

 

 


 式の途中で茜の姿が見えなくなった。
 ・・誰もいない控え室・・。
 ・・茶袋を開け・・。。
 手にする・・一冊の本。
 「・・時間が無いわ・・戻らなきゃ・・」
 

 


 本のタイトルは・・「たった一つの言い訳」。
 ・・茜は・・席に戻る前に・・どうしても・・その本を読みたい・・と・・。
 ・・結婚式が終わってからで無ければ・・いえ・・そうではないわ・・今すぐ・・。
 

 

 

 

 茜はTitleを見ただけで何が書かれているかが分かった。

 

 


「・・二人の気持ちは、二人にしか分からない・・」
 ・・ページを捲る・・文字が涙で滲んで・・読めない。
 たった・・一文・・。
「・・何時までも・・君の事を愛し、君の幸せを願っている・・」
 ・・はっきり顔が浮かぶ・・。
 あれ程、楽しい事があった日々が次から次へと・・まるで走馬灯の様に脳裏に浮かんでは消えて行く・・。

 

 

 

 次の瞬間、茜は決心をした。
 遅すぎたけれど・・忘れられない・・。

 

 

 


 会場に戻ると、一斉に此方を見ている幾つもの顔に話し掛けた・・。
 結婚相手には・・只管・・謝るしかない・・何と言われようとも・・悪いのは自分だ・・でも・・どうしても・・本当の気持ちは・・偽れない・・御免なさいで済まされないけれど・・皆さん許して下さい・・。
 

 

 

 テーブルの上の花瓶の・・花がゆっくり開き始め・・その風情・・分かろう筈も無い愛の輝き・・会場は静まり返ったまま・・。

 

 

 

 

 二人は、想い出のキャンパスを歩いている。
 茜は女優を辞めた。
 全ての仕事をキャンセルし・・其れでもなんとかなるわ・・そう言い聞かせる・・。
 手を繋いでいる洋二の瞳が語りかける・・。
「・・悪い事をしてしまった・・取り返しがつかない事を・・」
 茜は・・真白く美しい顔に微笑みを浮かべ・・。
「・・本があるでしょ・・?二人だけの事を書いた・・二人にしか分からないもの・・其れなら・・もう一度やり直す事が出来る・・私・・何でもするし・・何とかなるわよ・・」

 

 

 

 

 其れから・・二人が何処でどうしているのかなのだが・・。
 

 

 

 今宵・・澄んだ夜空に浮かぶ三日月・・そう、それであれば・・きっと二人も・・柔らかな光に包まれながら・・共に眺めているのでは・・。

 

 

 挿入曲 「想い出のRefrain」

 

  

youtu.be

 


youtu.be

 

 

 

 

Peut 邦題 缶蹴り

 

 

 

 仕事の帰り道に児童公園の横を通った。
 帰り道といっても、宮田哲夫は外回りをして直帰する事が多いから、会社には戻らず直接自宅を目指す。
 子供達が何組かに分かれて遊んでいる。
 缶蹴りなのか隠れん坊なのか分からないが、宮田の方に向かって走って来て、道路脇の植え込みに隠れている子がいる。
 勿論宮田からは丸見えなのだが、この子が何時になったら遊び友達に見つかって摑まるのかと思ったら、暫く様子を見たくなった。
 其の日の仕事は思ったより早めに終わって、何時もの帰り時間よりも少し早いから、時間に余裕があったという事も言えるのだが、其の衝動はそういう理由ばかりでは無かった様だ。
 実は、先程スマホに着信があったのだが、もたもたしている内にコールのバイブは止まってしまった。
 その前にも何度かコールがあったのだが、「はい、宮田ですが」と返答をするのとほぼ同時に切れてしまった。
 その内の一件は知っている番号であった。
 あとの番号には覚えが無い、勿論会社関係からは来る訳は無い。
 白板には「・・直帰」と書いて来たから。
 そんな事があったから、宮田も、「誰か知らんが、間違い電話か、其れとも何か用事があっての事なのか」と考えてみたが、それにしてもしつこい間違え方だな・・いや、複数の人間が同様に俺の番号に一斉に掛けてくるなど偶然が重なったにしては奇遇なケースだな」などと思ったりもした。
 宮田の関心は一時だが、隠れている子供が何時見つかるのかという事に集中し始めた。
 子供の頃には誰でもやった事のある遊びだから、此の結末は決まっている筈なのだが。
 時間が経つに連れ他に隠れている子供達は次々に缶を蹴りに行っては見つけられていく、やはり缶蹴りの様で飛び出して缶を蹴る寸前に見つかってしまうというお馴染みのパターンだ。
 遂に目の前に隠れている子も終わりだな、と思った時、公園の真ん中に集まった仲間は缶を思い切り蹴ると公園の別の出口からぞろぞろと出て行く。
「あら?この子は?」と、思わず目の前の子を凝視したが、時々植え込みの隙間から覗いていたのだが、帰って行く仲間の姿を見て飛びだした。
 植え込みの横から飛び出すと、慌てて仲間の後を追い、公園を出たすぐの所で仲間に追い着いた。
 仲間は、「何だ、・・は、適当に缶を蹴りに来ないとだめじゃん。隠れん坊じゃ無いんだから、積極的に鬼に挑戦して来なきゃ。今頃来ても、もう終わちゃったんだから、バーカ」と、仲間にからかわれながら一緒になって帰って行った。
 宮田はケリが付いた子供達の遊びと、最後まで缶蹴りに参加しなかった子供の心境がちぐはぐに思えてならなかった。何時もの遊び仲間なのだろうに、まさか一人だけ・・忘れてしまった・・?故意に軽視若しくは無視・・そんな事はよくあるから・・」
 自分の事がダブって頭に浮かぶのだ。偶々見掛けた子供達の缶蹴りと自分の現在の状況が。
 掛かって来た電話の番号をもう一度見てみた。
 どう考えても記憶には無いし、勿論スマホの履歴の登録にも見当たらない。
 ひょっとして、掛かって来た番号に一つ一つかけ直せば、缶蹴りと同じ様に、缶を蹴りに行って、見つけられたという事と同じ様になったのではなどと思ったりもしたが、何か其れもおかしい様な気がする。
 どうして、掛けてみなかったのか、かけ直す事も少なくないのだが、セールスだったりする事もよくあるから、面倒だったからと言えば其れ迄だ。
 しかし、一本や二本の番号なら其れでも済むだろうが、幾つもランダムに掛かって来た番号に出なかった事が、何か後ろめたい様な、其れでいて何事かと拘わり過ぎなくて良かったという気持ちになったりもする。
 其れが、自分が犯罪者か何かで彼方此方から追いかけられている身であるというのなら、後者の境地で納得がいきそうなのだが。
 ただ、掛けるまでしなくても、応答したにも拘わらず、同時に切れてしまったという事はどういうことなのか。
 宮田という名で、間違いに気が付いて切ったのか、最初から・・まさか悪戯でも無いだろうが・・悪戯としたら・・そんな悪戯が流行っているとは聞いた事は無いし、ランダムな複数の番号から同じ事をやってくるという辺りが常識では考えられない。
 此のまま忘れてしまえば、今現在まで続いている訳では無いのだから、たった一回の何かの紛れと思えば事は其れで済むのだが・・そう簡単には。
 ただ、一つだけ知っている番号は同じ様には考えられない。
 先程たった一つだけ覚えていると思ったのは、記憶にもあったのだが、登録もされている。
 懐かしい番号だと記憶している。
 登録されている名前は「飯塚麗子」とある。
 確か約十年前に謎の死を遂げた美人女優「大原麗子」の本名である。
 あの時もたった一回だけ掛かって来た。確かに「宮田です」と名乗った筈なのだが、他にも同じ姓の知人がいたのか、それとも・・。
 其の電話口の内容では、誰かと勘違いして掛けて来たとも思えるし、誰でも良かったから適当な番号に掛けたと考えてもおかしくは無いが、何れにしても大女優との個人的な知り合いで無かった事は間違い無い。
 当時出演していた映画を見た時には、綺麗なだけじゃない、不思議な魅力がある、あんな人と友達になれたらいいなと思った事を覚えている。
 大女優であるから、他の映画にも数多く出演しているが、他の作品ではどれもこれも何故か宮田の気を惹く役柄では無かったし、何といってもあのシリーズに出演していた彼女しか思いだしたくない。大人でありながら、甘ったれたようなあの話し方は独特であったし、宮田の胸の奥に小悪魔のように居場所を見つけて居座ってくれるのだ。
 あの時の彼女は、一方的に自分の周りに起きている事を話してくれた。
 仕事の話は、「どの作品は脚本中どうしても納得がいかない箇所があっておりたかったとか、一番気に入っている作品については、長々と自分の役柄に応じた演技で壺に嵌った時の心境やシチュエーションなど」を話してくれた。
 電話はまだ続いた。まるで此方が好意を感じながら話を楽しみにしている事を分かっているように。
 彼女も宮田が聞いていてくれていると思って話を続けていたのだろうと思う。
 宮田は、一言も合いの手を入れなかったし、黙っている事で耳から頭へストレートに生の声が蓄積されていく。
 彼女は、何もかも話し終えたあと、あの甘ったるい声で「じゃあ、また掛けるから」と言ったまま、通話が途切れたのかどうか・・何も聞こえないまま・・。
 宮田がそんな事を考えている間に陽は傾いていく。
 家まで帰る為の駅までは途中にある表示板が案内してくれる。
 公園の前にどのくらいいたのだろうか。
 駅までの道を歩きながら、今は亡き女優からの電話を思い出して掛けてみようかと思ったが、亡くなってから約十年が経っているのに・・おかしな事だとも。
 やはり、先に掛かって来た他の番号にも掛けてみようかと思ったのだが、其れをする事は、缶蹴りに例えればメンバー全員に掛ける様な気がしたのは何故だろうか。つまり自分が先程の子供の立場だとすれば、同じように隠れていて、缶を蹴るチャンスを狙っている仲間に掛ける様な気がした。
 鬼だけに電話をすればいいのではと考え直した。
 どうも今日の鬼はあの女優であるような気がする。
 もう、存在しない人・番号に掛けるのには、一瞬躊躇いの様に別の思考回路が制止しようとしたのだが、既に番号をプッシュしていた。
 発信音も聞こえず、いきなり懐かしい声が話を始めた。
 宮田は、その声を聞きたくて電話をしたんだという満足感を感じる事によって、自分のやった事を正当化している様な気がした。
「よく、掛けてくれたわね。また話を聞いてくれる・・でも、今回は、貴方も何かありそうだけれど・・?じゃあ、先ずは私が話してもいい?」
 宮田は今回は相槌をうった。「どうぞ。僕は、君の声が・・いや話が聞きたくて・・」
 彼女の話は今回はそんなに長くは無かったが、そろそろつもり積もった愚痴、男性関係・巡り合えなかった子供の事・不治の病の事などでも言われるのではないかと思ったのだが、そうでは無かった。
「私の最高に満足している演技は・・・」
 あくまでも俳優として、プロとしての感想を述べるに過ぎなかった。
 実に見事な俳優根性に圧倒されながら、宮田はエンディングにピリオドの様な相槌をうった。
 宮田が自分の事を話しだした時、「十年ぶりに電話をして、貴方から折り返し電話が掛かってきたという事が、そんなあなたの「今」を・・」宮田の話す言葉が彼女には読めている様なのが、おかしくも心地よくも感じられた。
 宮田が駅に着いた時、駅の表示は何時の間にか「お帰り」と表示されている。
 宮田は確かに・・帰るのだが、その前に一つやっておかなければならない事がある。
 撮影シーンのような駅前の広場の真ん中に缶が置いてある、と思った時には、既に宮田はダッシュしていた。
 缶は目の前にあって、キックする寸前、一瞬遅れた様に彼女が何かを言った。
 しかし、既に缶は宙高く蹴り上げられていて重力に逆らっている様に、上昇して消えていった。
 彼女は笑顔で宮田に近付いて来ると、二人は駅に到着した電車に乗って行く。
「間に合って良かった。何時までも孤独なあなたを見ている訳には行かなかった・・私も、実は・・」
「分かっているわ。此れからは電話を掛ける事は無くなったわね」
 宮田は満足をしている。自分の身体に待ち受けている事がほんの少し早まっただけ・・・。他の掛かってきた電話が何だったのかが分かった、様々な「煩悩」。
 何処からも電話が掛かってくることは無い。

 

 だが・・美しいものは・・何時までも美しい・・彼女のように・・本当さ・・そうに決まっている。

 

 

 辺り一面に流れて来る黄昏色は、油のような夕日の光の中に溶け込み、白馬に飾った色糸の手綱が、絶えず流れて行く様子は、まるで画のような美しさでこの世のものとは思えない程だった。

 

 

昨日の続き、夢十夜「第十二夜」に「百合」を掲載する。ついでに、野暮に徹して弾いた初期の下手な演奏「0926test5」も掲載。

 

  夢十夜

 第十二夜 

 

 

 こんな夢を見た。
 まだ若いと思われる女性の看護師から、話し掛けられた。
 私はベッドに寝たままで、いろんな事を考えていた。
 自分の余命は長くても半年から一年だと思っている。
 三年前に母の介護を終え母は眠る様に亡くなった。
 其れから僅か三年で自分の番が来るとは思っていなかった。
 いろんな事とは過去の家族との出来事だが子供達も独立し不自由ない生活を送っている。
 自分一人で生きていくのも目的が無ければ意味が無いと考えるようになり、何時かはあの世になど。
 そんな事ばかり考えていたせいか、今度は自分の意思とは関係無く病が進行してきた。
 看護師は日により或いは時間により交代する。人数が多いようで入れ代わり立ち替わりやってくる。
 看護師の処置がどうであろうともそれ程気にはならない。
 此処を出る時があるかどうかは分からないが、身体の中には病巣が居座っている様な気がする。
 自宅で、或いは旅行先など何処でどんな事になるのかなど思っていた。
 引っ越す事にでもなればやはり生まれ故郷に帰りたいと思う。
 其れとも、旅行先の全く知らない場所でなど考えれば不審死とし事件沙汰になる可能性もある。
 生まれ育った故郷であればその点まだ良いなど詰まらない事ばかり考えてしまう。
「もしもし」
 突然話し掛けてきた看護婦の其の内容はこんな事だった。
「死ぬのって怖く無いですか?はあ、そうですか、それならお願いをしても良いでしょうか?」
 看護師は近いうちに結婚をしようと考えているのだが、其の相手というのが一年後に生まれて来る男性だという。
 どうしてまた、まだ生まれていない人類の事などが分かるのかと尋ねる。
 彼女が言うには、前の生涯で知り合った男性で先に亡くなってしまったのだが、生れ変わって来るのが一年先になるから、其の時に結婚をしようという約束をしたという。
「それで?其れが私とどんな関係にあるのか?」
 いきなりおかしな話をされ、其れで自らに一体何を願うのかと疑問に思うのは当然。
「貴方は御自分がもうじき亡くなってしまうと仰っていましたね?」
 彼女が夜勤の時に私のベッドまで廻ってきた際、寝言でその様な事を言っていたという。
「寝言であれば本当にそうなるのかなど分からないと考えなかったのか?」
 と尋ねたところ、
 前にも同じ様な事があり、其の時は寝言の通り亡くなったようなのだが、亡くなる前に話をする機会があり、トイレに連れて行った際に、先が長く無く何時頃までが限界だという話を聞いたが、実際その通り亡くなったという。
 其の話を聞いていて疑問に思った事を挙げてみた。
「もし、其の男性が一年後に生まれて来るとし、子供で生まれて来るのだから、其の男性が一歳の時には貴女は二十何年も歳が上という事になってしまうが、そんな年が離れた結婚で上手くやっていけるのか?」
 女性は即座に答えた。
「・・実は私もこの世のものでは無いのです。今貴方の目の前にいる私は其の男性と心中をしたのです。魂が休まらなく、あの世とこの世の中間に浮かんでいる様なものなんです。只、死んだ事には間違い無いので、あの世に行く事は可能なんですが、道連れとしてあなたに付いて行こうと思ったのです。一人で行くには不安なので。其れで無事あの人に会えるという事は定かでは無いのですが、貴方に一緒に行って貰えれば、心強いと思ったから今迄おかしな事を申し上げて来たのです」
 おかしな願いをされたものだとは思ったが、実際自分はもうじきあの世に行くのだから、旅は道連れか?」
 やがて、私が死ぬ時が訪れた。
 故郷に帰っていたから、病院に連絡をし看護師を電話口に出して貰い、至急私の所に来なさいと話した。
 看護師は迷う事も無く其の日の内に私の故郷まで来、私に付き添っている。
 少しの間痛みがあったが、次第に意識は無くなっていった。
 看護師は私の脇に横たわると一緒にあの世に行く事を願っている。
 今度こそ上手くいくようにと願ったのだろう。気が付いた時には、既にあの世の入口と思えるところに二人並び立っていた。
 私と手を繋ぎ、私から離れないようにしようというけなげな女性に、出来るだけ協力をしてあげようと思った。
 よく見ると、女性は赤い糸を持っていたから、おそらく其れが男性とを繋ぐ糸では無いかと思った。
 その糸が外れないようにと女性のベルトに縛りつけてあげた。
 あの世はこの世とは全く構造が違うのかも知れない。そういう話は誰からも聞いた事は無いが、死ねば当然。
 只、別の空間があるだけとしても、何人かの人々とは会う事があるのかも知れないなど思ったりした。
 其の人達の中から彼女の相手を見つけなくてはならない。
 この世では想像もつかない事でとても不可能と思える事でも、あの世では運が良ければ会う事が出来るのか。
 運が悪いとは、つまり亡くなって時間が経ち過ぎると、既に生まれ変わってしまっているなどあるのかも知れないという事。
 二人は大急ぎで赤い糸を頼りに進んで行った。
 やがて、霞の向こうに見えるが如く、人の影が見えて来た。
  女性が其の人間の顔や姿を見て驚いたような顔をした時には、既に男性と女性は出会い、手を繋ぐことが出来たと思った。
 さて、此処から生まれ変わるにはどうすれば良いのかは誰も分からない。
 何処にも出口の表示などは無いから、三人で彼方此方探し回った。
 時間が経つとどんな事になるやも知れないと、焦りが生じてきた。
 辛うじて二人は生まれ変わり口を見つける事が出来た。
 其の時の私の記憶では、只、隙間から明るい光が差し込んでいる扉の様な物を開けた時、二人は手を繋いだまま何処かの病院で新生児として生まれ変わっていた。
 勿論、別の家庭に生まれた事だろう。赤い糸は其の後まで効果はありそうな気がした。
 私は只管きっと良い親に恵まれたのだろうと願うばかりで、其処から先は私には分からない世界だ。

 

 

 肝心な自分はどうなるのかという不安を感じながらあの世を彷徨っていた。
 十七年前に亡くなった父と、三年前に亡くなった母に会いたいと思い、探し回ったが父はもう時間が経ち過ぎているから駄目だろうとも思った。
 せめて母だけでも会いたいと思った時、既に私はあの二人と同じ隙間から光の刺す扉に来てしまっていた。
 もう、生まれ変わりの時なんだと思った。
 新生児が生まれたのは、昭和二十数年・・月・・日である事は何年かして分かったのだが・・。
 つまり、私の場合は元の自分に生まれ変わってしまったという事の様だ。
 また同じ生涯を送るのかという思いは自分では分からないし、周りの人々も生まれ変わりだとは思ってはいないのだから、結局、同じ人間に生まれ変わった、つまり生まれ変わりとは未来に対してだけでなく、過去に逆戻りする事もありうるのだと思った。
 何故、其れが分かったのか?
 夢から覚めたからだ。
 目が覚めてから、随分おかしな夢だったなと思った。
 夢で良かったのか悪かったのかは分からないと思った。

 起きてから健康診断の用紙を持って市の指定する病院に行った。
 夢で見た病院の様な気がした。
 検診の結果が出た。
 夢で見たのと同じ病に掛かっているという。
 其れから暫くし、手術を受ける事になった。
 其処で驚いた事は、生きるか死ぬかを自分で決めなくてはいけない治療の選択があった。
 あと、自分の余命は半年から一年だと思う。
 正夢だったようだ。

 夕陽は病院の窓から差し込んで来るから、カーテンを閉めた。
 二度と見たくない景色の中で、夕陽は何も言わず、まるで抽象画の様な図形混じりで私の心の中まで侵入してくると、心の中で、組み立てられなかったジグゾーパズルを持った私には抵抗が出来なかった。

 

 

 

 

 

 後幾らも無い・・そう思いながら病院のベッドに寝ている。

 

 

 夜中になった。
 懐中電灯を持った看護士がカーテンの向こうから近付いてき、カーテンを開け私を見ている。

 

 

 看護師が私に話し掛けて来た。
「もしもし」
 看護婦の話の内容はこんな事だった。
「死ぬのって怖く無いですか?はあ、そうですか、それならお願いをしても良いでしょうか?」
 其の後の話の内容は想像がついていた。
 やはり同じ様だ。
 

 


 「貴方は御自分がもうじき亡くなってしまうと仰っていましたね?」
 彼女が夜勤の時に私のベッドまで廻ってきた際、寝言でその様な事を言っていたという。
 其れを聞いた私は、今度は違うと思う。
 其れで、本当に寝言でその様な事言っていたのかと尋ねた。
 彼女は、少し思い出している様な表情をしてから・・。
「・・何か酷くうなされている様でしたが・・?」

 

 

 

 其処で・・私は彼女の聞いた寝言は違う意味だったのではないか?と聞いてみた。
 今度は私も若干寝ている時の記憶が残っていたようだ。
 そう言われると彼女も・・自信が無くなっていた様で・・。
「・・違う・・」
 と何回も繰り返していたのかも知れないと言う。
 私も、其れを聞いたら・・まるで・・とてつもなく高いところにある棚からジグソーパズルと一緒に大きなものが落ちて来たのを感じた。

 

 


 確かこんな夢を見ていて・・其れで寝言を言ったような気がする。
 其の寝言とは・・?と思いだせば・・棚から落ちて来た大きなものが私に言わせた。

 

 


「・・生まれ変わり?そんなものは無い。仏教でいう「輪廻転生・・など無いのだ。そして、この世はあってもあの世など有る訳がない。其れであれば・・あの世から生まれ変わるなどもあり得ない事になる・・」
 彼女も、私の寝言を・・もう一度記憶の底から呼び出そうとしたようだ。
 看護師は懐中電灯で、私のベッドに異常がない事を確認すると・・カーテンは閉まり・・灯りは遠ざかって行った・・。

 

 

 

 一つ気になるのは、私の此れからは見えているような気がする。
 そう長くはない・・そう思うのだが・・何時になるかは全く分からないが・・其の時が来た時には私は・・もう同じ事を繰り替えさなくて良い事になる。
 そう考えた時、何か気が楽になった。

 

 


 あの世も輪廻転生も無い。
 この世はある。
 だとすれば・・。
「・・死んだ時には・・其れで終点だという事だ・・」
 え?彼女?同じだろう・・つまり、心中を図ったが・・男は亡くなった。
 彼女は死にきれなかった。
 とすれば・・二人は別々のまま・・其の後は何もない事になる。

 

 


 ベッドに寝ている時に看護師が来た。
 私は、あの看護師の顔形・背格好など全て其の看護婦に尋ねてみた。
「・・ええ、以前はいましたが・・最近姿を見なくなりましたね?辞めたのではないでしょうか?」
 私は其の看護婦の言っている事は少し違うと言いたかったが・・やめる事にした。
「・・いや?何処かで看護師をやっているんじゃないかな?」

 

 

 組み立てられなかったジグソーパズルの最後の一枚が・・ピタリとおさまった・・。
 

 

 

 

 

  「百合」

 

 信三の法律事務所に新しく女性の事務員が入って来た。
 年も遥かに若い片野百合は器量が良く、何故か信三は仕事の教え甲斐を感じた。
 信三は毎日一緒に仕事をやっていくうちに、百合の事が気に入った・・というか、おかしな感情が頭を擡げてくる様な気がした。
 実際、百合は性格も素直で、仕事を覚えるのも早かった。
 仕事が終わってから、信三が百合を誘って夕食を食べ酒を飲む事が多くなった。
 歳は両手程違う。
 二人で仕事の話は抜きで、いろんな話をした。
 そんな中で、百合が信三に、
「百合の花って好きですか?」
「そりゃあ、君の名前と同じ綺麗な花だと思うけど、百合にもいろんな色があるからな」
 百合はスマホで百合の花と検索しながら画面を見せた。
「こんなにいろいろの花があるんですよ。どの花が好きですか?」
「う~ん、君の様な清楚な白い大輪、此のホワイトリリーなんかいいね!」
「・・清楚な・・ですか・・」
 百合は歳の差をあまり意識してないようで、所帯持ちの信三の事を気に入って・・、いや、それ以上に・・?
 信三も同様の気持ちだったが。
 酔いが回った百合が、
「私の事・・どう思います?」
 と聞いた時には、何と言って良いか言葉に詰まった。
 其れからも何回か同じ様な機会があったが、或る日、信三はカウンター席の横に座っている百合に、雰囲気を壊さない様にと考慮しながらも話してみた。
「君、綺麗だし、若いんだから、当然、付き合っている彼氏とか・・?」
「全くいない訳では・・でも、此の人ならという・・何故か?」
「そう・・まだ君が出会いが足りないのかも知れないな。もう少しいろんな人に会ってみれば。良かったら、僕の後輩で独身者等大勢いるから、会ってみないか」
 暫く考えていた百合がグッとグラスのワインを飲んで言った。
「考えてみます」
 信三は、其の時、言葉にならない言葉が存在している様な気がした。
 百合がトイレに立った時、今度は信三がグラスのワインをグッと飲んで呟いた。
「俺だって、人間だからな。美しいとか・・いや、可愛いなって思う事だってあるよ」

 


 暫く経った頃、偶然だったが、信三が何人かの後輩にあった事があった。
 その内の、百合にお似合いかと思えた二枚目の後輩に話し掛けてみた。
 百合の事は何も言わなかったが、
「偶には、事務所に遊びに来いよ」といって見たら、
「そうですね。先輩の所も暫くご無沙汰しているし、遊びに行ってもいいですか?」。

 


 短い期間だったが、百合の結婚式の日取りが決まった。
 信三は来賓として会場にいる。
 新郎新婦の入場が始まった。
 信三は、「百合は・・どうだったんだろう・・」と呟いた。
 此の式では引き出物は宅配で送るらしい。
 テーブルにはお届け日が記載されたカードが置かれている。
 司会者から、「引き出物はおふたりからのお心遣いで後日ご自宅へ配送させていただくかたちとなりました」と一言アナウンスもあった。 

 

 信三が仕事を終えて家に帰って来ると、引き出物が届いていた。
 引き出物の大きな袋の中から、「白い大輪、ホワイトリリー」が首を傾げる様に信三を見ている。
 おかしなことに、信三は其の花を何時まで見ていても飽きなかった。
「そんなに僕を見ないでくれよ、・・完全敗訴・・・」

 


 ベランダの外から冴さえざえとした星が澄んだ空にあらわれて来た。
純白のドレスが白すぎる肌に映えていた事を思い出した。
 

 

 

 

 昨日の「sway」なのだが、スタンダードナンバーで非常に有名で、USAの古い有名な歌手も歌っている。

 このメロディーは乗りやすく良いのだが、短すぎる。本来は、歌手が歌った方が良い曲で、楽器だけで弾くのには適さなく、また、ジャズグループなどでアレンジをすると、原曲が消滅をする事もある。

 ただ、歌手の中でもこれは素晴らしいと思えるようなモノにはなかなか当たらないが、

 この人は、途中から・・例えれば四人組のコーラスグループはそれぞれのパートを歌っているが、同じように、他の人のパートを歌うようなアレンジをするような気がする。

 音感が良いから器用で可能なのだと思う。

 

 それでは、楽器を購入したばかりの初期に、仕事で数十年のブランクがあり、指が動かなかったりした当時の、且つ・・意識して野暮ったらしく弾いた下手な演奏である「0926test5」を載せる・・冒頭はバイオリンでのクラッシク曲のハンガリアン舞曲第五番だったかな・・?

 

  

youtu.be

夏目漱石作「夢十夜」から「第一夜」「第六夜」を、つづき著者のものを一つ掲載する。

 

 

 天才とも称された「文豪・夏目漱石」は数多くの素晴らしい作品を産みだしている。本日はその中から「夢十夜」の中におさまっている「第一夜」と「第六夜」を先ずはご紹介します。

 十夜の内前半の作品は「こんな夢を見た」で始まっている。

 どんな意図で書き始めたのかは分からないが、大体小説というものは理屈ではなく、読む者の感性の違いによりその感想も異なるのだろう。

 芸術とはそんなものなのかも知れず、進化した宇宙の文明でも技術力は到底比較にあたらず優れているが、彼らが相対的な時間の差を超え絶賛するものは、人類のような生命体に於ける感情ではなく「感性」、即ち芸術、と言えそうだ。

 明治の世に、漱石が主となって開かれた木曜会には文人達が集い、芥川龍之介もその中の一人であるが、漱石を師と仰いでいたようだ。

 芥川は自作「鼻」で漱石に「・・君、こんなものが幾つも書ければ素晴らしいじゃないか・・」と賛美された。

 また、芥川はある時、漱石にこんな事を言った。

「・・(小説の神様と言われている)志賀直哉のようなものを書いてみたいのですが・・」

「・・君は君で・・それでいいんじゃないか・・」

また、十夜と称し全く趣(おもむき)の異なった短編作品を次々に書いた事を、星新一と並びショートショートの第一人者と称される阿刀田高はこんな事を。

「・・此れだけ異なった短編を次々に書くという事は、長編を書くよりも大変な事だ・・」

 

 漱石の頭の中までは分からないが、十作を書こうと思い、書き始めた第一夜、これはあくまでも個人の感想で勝手な解釈だが「・・美しい絵画やファッションのように美しく・・満天の星の光のようなモノを感じる・・」何か、星夜と言えば、ゴッホの絵画を思い出すが・・。

 おそらくは、漱石も書きだしに自らの創作の狙いを表現したかったのではないだろうかと思ったりもする。

 書き始めて中盤の第六夜は、この作品の中でも、最も文学的且つ芸術感という意味合いがはっきり感じられると共に、世評の様な見解も登場し、細かな文章表現にまで緻密な表現力を感じさせてくれ本当に素晴らしい。

 まあ、読者の勝手な呟きは此処までとし、早速、第一夜、とんで第六夜を載せる。青空文庫より。

 

 

第一夜


 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元にすわっていると、仰向あおむきに寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭りんかくやわらかな瓜実うりざねがおをその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、くちびるの色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然はっきり云った。自分もたしかにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上からのぞき込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼をけた。大きなうるおいのある眼で、長いまつげに包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒なひとみの奥に、自分の姿があざやかに浮かんでいる。
 自分はとおるほど深く見えるこの黒眼の色沢つやを眺めて、これでも死ぬのかと思っ
た。それで、ねんごろに枕のそばへ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうに※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
 じゃ、わたしの顔が見えるかいと一心いっしんに聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
 しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片かけ墓標はかじるしに置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。またいに来ますから」
 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
 自分は黙って首肯うなずいた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓のそばに坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
 自分はただ待っていると答えた。すると、黒いひとみのなかにあざやかに見えた自分の姿が、ぼうっとくずれて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長いまつげの間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
 自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きななめらかなふちするどい貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿しめった土のにおいもした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
 それから星の破片かけの落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちているに、かどが取れてなめらかになったんだろうと思った。げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
 自分はこけの上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石はかいしを眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定かんじょうした。
 しばらくするとまた唐紅からくれない天道てんとうがのそりとのぼって来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
 自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、こけえた丸い石を眺めて、自分は女にだまされたのではなかろうかと思い出した。
 すると石の下からはすに自分の方へ向いて青いくきが伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりとゆらくきいただきに、心持首をかたぶけていた細長い一輪のつぼみが、ふっくらとはなびらを開いた。真白な百合ゆりが鼻の先で骨にこたえるほど匂った。そこへはるかの上から、ぽたりとつゆが落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露のしたたる、白い花弁はなびら接吻せっぷんした。自分が百合から顔を離す拍子ひょうしに思わず、遠い空を見たら、あかつきの星がたった一つまたたいていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

 

 

 

第六夜


 運慶うんけい護国寺ごこくじの山門で仁王におうを刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評げばひょうをやっていた。
 山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹がななめに山門のいらかを隠して、遠い青空までびている。松の緑と朱塗しゅぬりの門が互いにうつり合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障めざわりにならないように、はすに切って行って、上になるほど幅を広く屋根まで突出つきだしているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思われる。
 ところが見ているものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。そのうちでも車夫が一番多い。辻待つじまちをして退屈だから立っているに相違ない。
「大きなもんだなあ」と云っている。
「人間をこしらえるよりもよっぽど骨が折れるだろう」とも云っている。
 そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王をるのかね。へえそうかね。わっしゃまた仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」と云った男がある。
「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって、仁王ほど強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊やまとだけのみことよりも強いんだってえからね」と話しかけた男もある。この男は尻を端折はしょって、帽子をかぶらずにいた。よほど無教育な男と見える。
 運慶は見物人の評判には委細頓着とんじゃくなくのみつちを動かしている。いっこう振り向きもしない。高い所に乗って、仁王の顔のあたりをしきりにいて行く。
 運慶は頭に小さい烏帽子えぼしのようなものを乗せて、素袍すおうだか何だかわからない大きなそで背中せなかくくっている。その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
 しかし運慶の方では不思議とも奇体ともとんと感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。仰向あおむいてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王とれとあるのみと云う態度だ。天晴あっぱれだ」と云ってめ出した。
 自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、

すかさず、「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在だいじざいの妙境に達している」と云った。
 運慶は今太いまゆ一寸いっすんの高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯をたてに返すや否やすに、上

から槌をおろした。堅い木をきざみにけずって、厚い木屑きくずが槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっぴらいた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。そのとうの入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念をさしはさんでおらんように見えた。

「よくああ無造作むぞうさに鑿を使って、思うようなまみえや鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言ひとりごとのように言った。するとさっきの若い男が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中にうまっているのを、のみつちの力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王がってみたくなったから見物をやめてさっそくうちへ帰った。
 道具箱からのみ金槌かなづちを持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風あらしで倒れたかしを、まきにするつもりで、木挽こびきかせた手頃なやつが、たくさん積んであった。
 自分は一番大きいのを選んで、勢いよくり始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪をかたぱしから彫って見たが、どれもこれも仁王をかくしていなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王はうまっていないものだと悟った。それで運慶が今日きょうまで生きている理由もほぼ解った。

 

 

 勿論、比較するつもりなど毛頭なく、大人に憧れた子供のような気持ちで著者が書いた、第十一夜及び・・第十二夜は時間の都合で・・明日に載せる。

 

夢十夜 第十一夜

こんな夢を見た。

「蝋燭の火が・・」

 何処から吹き込んで来るのか、僅かな風に蝋燭の火が揺れている。
 昔から、蝋燭を人間の寿命に例えるという話がある。
 目の前には何本もの蝋燭があるのだが。
 若し、此れが寿命に関係するものであれば、私は其の蝋燭の火が消えたりする事で人の生死を知る事が出来る訳だが、一体何の因果があってそんな事に係り合っているのかと疑問に思う。
 部屋の中が暗いからそんな事を考えるのかと思い、障子を開けた。
 目の前の蝋燭が見えなくなった。
 やはり、幻だったのかと思った時、玄関から人の声が聞こえた。
 私が重い腰を上げ玄関まで歩いて行くと、紫地に白い大きめの芯の赤が目立つ花が幾つも描かれている浴衣を着た女が立っている。
 異常なくらいに色の白い細身の女で驚くほどの別嬪だ。
「此方は物書きの方のお住まいだと伺いましたのですが・・」
「如何にも、私は物書きだが、さて何の御用でいらしたのかな?」
「実は私をお話の中に書いて戴きたいと思いまして」
 何やら事情がありそうな様でもあるし、玄関では何だからと部屋に上がるように勧めたのだが、我ながらどうして縁も無い人間が、まさか我が著書の愛読者でもあるまいに・・。
 女性は自分は安形澄子だと名乗った後に、作品の中に盛り込んで貰いたい理由を話し始めた。
「私は、夏目漱石の作品の中で那美という女性が自分が池に身を投げて浮いている姿を絵に描いてくれと言う、画家は物足りないから絵にならないと言ったが、最後に出征兵士を見送る那美の顔に「憐れ」が浮んでいるのを見て『それだ、それだ、それが出れば絵になりますよ』と那美の肩をたたき『余が胸中の画面はこの咄嗟(とっさ)の際に成就したのである』との部分を拝見してから、絵では無く文章の中に盛り込んで貰いたいと思いまして」
「絵では無く文章に・・何か思いついた理由などはあるのですか?」
 澄子は私の顔は見ずに、何故か憂いの浮かんだ表情で庭を見ながら、「私はもうじき嫁いでいくのですが、その前に想い出にと思いまして」
「ほう、嫁いでいかれるのならおめでたい事ではありますが、それなら写真屋に行って記念写真を取って貰った方が宜しいのでは?」と、自分なりの考えを話してみたのだが、どうやら其の縁談というのは、事情があって本人の意思ではない様だ。
「其れでは、あなたは縁談に乗り気がしないが断れる事情では無いから心境を書き写して貰いたいとでもお考えなんですか?」
 澄子は今度は私の顔を見て頷いた。
 其れでは深い事情や心境などを聞こうと思ったのだが、澄子は懐から紙を出すと私に見せる。
 私は其の紙に書き綴ってある文面を読みながら、「此れは・・なかなかお上手ですね。私が書き改めるまでも無く、此のままでも立派な短い作品になっているのでは?」と尋ねると、澄子は、「そう仰って頂いて大変有り難いのですが、貴方の文章の間に挟み込むようにして頂ければ存分なのですが」と言いながらまた庭の池に目を移した。
 私は其れで良いのかと念を押したがそれでいいと言う。
「其れでは早速今晩から書き始める事にしましょう・・何か、庭に興味がおあり何ですか?」
 澄子があまり庭に関心を示す様だから、私も澄子と庭を交互に見る様に聞いてみた。
 澄子は縁側に視線を移すと、「宜しかったらご一緒にお庭に出てみませんか?」と謂うから、私は「ええ、こんな庭で宜しかったら」と、縁側から下駄を履こうとして気が付いた。
 女物の下駄が既に揃えておいてある。
 まさか澄江が素早く置ける様な暇は無かったし、一体誰が並べてくれたんだろうと思いながらも、何となく嬉しい様な気がした。
 私をそんな気持ちにさせたのも、澄子の美しさ故かという思いが脳裏を掠めたし、さて、庭に出てどうするのかという事などはどうでも良い様な気がした。
 二人で庭の芝の上を池の縁迄歩いて、風も無く透き通った水面を見た時に、澄江が「綺麗な池だこと、中に入っても宜しいでしょうか?」と言うので、私は少し驚いたが、「どうぞ、この時分だから水も冷たくは無いでしょうから・・」と下駄を脱ぐ澄子の後ろ姿を見ていた。
 澄子は浴衣の裾を端折る様にすると段差のある池の端から慎重に浅瀬に入って行った。
 私は色の白い脚が水面に波を作っていくのを見て、何とも言われぬ清楚な想いを感ぜざるを得なかった。
 私は池の畔で此れは文になるなと思い、ゆっくりと池の真ん中あたりまで行って此方を振り返った澄江を見つめていた。
 澄江は私に微笑んだまま、池の中に佇んでいる。
 私が澄江から目を反(そら)して、脚もとの水面(みなも)を見た時に、何やら水中に波に揺れる顔の様なものが見えたから、何だろうと・・。
 この池には僅かばかりの小魚や小さな亀がいるだけで・・、「ひょっとしたら、亀が水中に潜ってしまって甲羅が顔の様に見えたのではと思ったが、亀は水面を泳ぎはするが水底には・・。
 魚が優雅に泳いでいる静かな池の少し黒っぽい水中に・・、どうしたのか年配の男の顔の様に見えて仕方が無い。
 澄江が此方を見て、「何か作品のお考えでも浮かんだのですか?」と言いながら一瞬憂いに満ちた顔で、其の顔の様に見える影に視線を移した時、幾らか風が出て来たようで池に細かい波が立ち始めた。
 水中の影のように見えたものは波に掻き消されるように消えていた。
 私は暫し其の事に囚(とら)われていたので、澄江が此方に近付いて来て池から上がろうとしている事に気が付かなかったが、既に私のすぐ傍まで来ていた澄江は私の目を見て微笑みを浮かべ首を傾(かし)げた。
 私は恰(あたか)も子供に何かをねだられた様かのような気がしてからはっと気が付き、手を差し伸べて澄江の手を取りそっと引っ張り上げようとした。
 澄江は私の手に摑まり芝迄上がろうとしている。
 突然動きがスローモーションに・・私は、澄江の脚が・・そして、一瞬真っ白な肌に薄っすら青筋が浮かんでいるかのような腿が露わになっているのを見て息を呑んだ。
 私は何か悪い事をしたかのように芝迄上がった澄江の目を覗き込むように見た。
 澄江が・・濡れているから、私は我に返って縁側に戻ると端に置いてある籐の籠からタオルを取り出すと池の縁迄駆け寄って澄江に渡した。
 私は考えも無く二枚持って来たのだが、一枚を手に取った澄江が自らを拭きながら何気なく私の顔を覗き込んだ時、私はもう一枚のタオルで無意識のうちに澄江の脚を拭いている自分に気付き・・手が止まりそうになった。
 二人は縁側から座敷に上がり卓台の両側に向き合うように座った。
 陽は暮れかけようとしていたから障子を閉めようとしたが、ハッとある事に気が付き後にする事にした。

 私は池の底の顔の様なものがまだ気になっていたのだが、おそらく私の見間違いではと考えていたら、澄江がそろそろお暇(いとま)しなければと言うので、玄関まで送って行った。
「文章は書いておくから、また明日にでも来てくれ」と言ったら、澄江は、「宜しくお願い致します」と頭を下げ、門から出ると夕暮れの道を忙しそうに通る人々に紛れる様に見えなくなった。
 部屋に戻った私はもういいだろうと呟きながら障子を閉めた。
 やはり、蝋燭が何本か見える。
 朝方と違い、外は風が出て来た様だ。
 障子の隙間から入りこんで来る風に蝋燭の火が揺れている。
 気持ちが悪い様な気がしたから、部屋の電燈を付けようとした。
 高さが疎(まば)らな蝋燭の短めの一本の火が風に揺れると・・ふと消えた。
 その瞬間私は、即座に電燈を点けた。

 翌日の昼頃までに文章を書き終えたから、午後の何時まで暇を潰していたか・・、陽が落ちようとする頃、玄関から覚えのある声が聞こえた。
 白地に花柄の浴衣を着た澄江が、昨日とは打って変わった明るい顔をして、玄関燈の灯りに溶け込むように立っている。
「原稿が出来たから、ああ、上に上がって」と私・・、澄江と奥の部屋の卓台の両側に座り、原稿を渡した。
 澄江が其れを読み始めた時、庭の上空の模様がおかしくなってから風が強くなってき、雨も激しく降り始めた。
 私は障子を閉めた。
 しまった・・と思ったのだが、障子が閉まっても昨日の様な蝋燭は見えなかった。
 部屋の電燈の下(もと)で、熱心に原稿を見ていた澄江が、一通り読み終え、顔を上げて私に話をし出した。
「実は、昨日お話をした縁談の話なんですが、破談になったんです」
 私は澄江の顔を見たが、目からは昨日の様な憂いが窺えないから、どうしたんだろうと思った。
 澄江はそんな私の好奇心を満たす様に話を続けた。「其の相手の方と言うのは高田金蔵と言いまして町の金貸し屋さんを営んでおりまして、奥様がいらした当時から私は妾として囲われていたのですが、其の奥様が亡くなられてしまったので、私を正式な妻としてめとるという事になったのです。其れが昨日心臓の発作とかで急に倒れたまま二度と息を吹き返す事は無くなったのです。ですから、私は言ってみれば自由の身というか・・」
 高利貸の妾から後妻の話まで、澄江本人は望まぬところだったのだが、親の借金の為に仕方なく嫁いでいく寸前に運命は変ったという事のようだ。
 ところで、どうして私のところなどに祝言の前日に来たのかと聞いてみたら、 以前から私の事は知っていた。其れは、澄江も同じ様に物書きになりたいと思っていたからということと、漱石谷崎潤一郎田山花袋などや私の著書が好きでよく読んでくれていたそうで、自分も物書き志望で幾つも作品を書いていたという事だった。
 私は、天才漱石や文豪と名を並べられるなどはとんでもない事でと困惑したのだが、其れで昨日の澄江の文章が優れたものであった理由が分かった。
 もう一つ、あの水底の顔と、火が消えた蝋燭は幻であったとし、高利貸の死と一致した偶然が奇妙に思えた。

 二人が話に夢中になっていた時、雨は一層激しさを増し、雷鳴が響き・雷光が鋭く閃きだした。
 私は急いで障子の更に外のガラス戸と雨戸を閉めた。
 私は縁側から近い澄江の向かいに座りながら、「梅雨が別れを告げている様な最後の嵐だ。此れで暑い夏が来るな・・」と。
 澄江が私が座るのを見届ける様に、「あの・・文章を一部分変えて貰えませんか・・」と、私が、「どの部分かな?」と尋ねた。
 私は澄江の文章は殆ど覚えていたのだが、一体どの辺りを変えるのかと思い、自分でも此処だろうかと思われる部分を頭の中に描いていた。
 漱石は兎も角、谷崎潤一郎の「痴人の愛」や田山花袋の「蒲団」には、共通する主人公の痴情といっても良さそうな情念や行動が描かれている。
 果たして詰まらぬことを如何ように・・と思った時、澄江が書き改めたい文面を述べた。
「如何様にもならぬと思えば、憂いは脳裏を駆け巡るだけで無く、身にも其の感情を植え付けようとする」と言う箇所を挙げた。
「晴れて自由の身になればこそと思う意識は解放感を乗り越え、我が胸を騒がせると身に由々しき情念を齎そうとして・・」
 私は成程と思う一方、「『蒲団』の終わり頃に主人公が去って行った女性の夜具の匂いを嗅ぐという部分があるが・・、また『痴人の愛』でナオミズムと言う言葉が巷で流行したのだが、其れは主人公が女性を愛玩するという情念・・。
 何れも男性からして女性に求めた欲求とみられるのだが、女性からしてとなると、「我も子供では無いか・・」・・と思い浮かべていた時。


 一段と雷光が光るに遅れ、まるで地を突き上げるような雷鳴が轟きわたった。

 停電の様だ。部屋の電燈は消え、闇が全てを支配したようだった。


 真っ暗闇の中で、微かに白いものが私を見ている・・。
 私は「・・良かったな・・」という言の葉が胸に染み渡っていく安堵の念とは別に、何かが脳裏を掠める様(さま)を感じた。
 すぐに行燈(あんどん)に灯りを灯もした。
 あの蝋燭の炎が消えた時の為に・・行燈の油は満たされており・・傍に置かれていたマッチに手を遣るのには訳も無かった。
「・・あの・・此れからも教えて頂けますか?」
「・・いや、貴女には既に・・天賦の才が・・」
「・・え?才とは・・物書きの・・という意味でしょうか?」 
「然有り」
 瑞々しい一輪の花が・・一段と・・。
 彼女は週に一度ほどやって来ては、私と共に漱石の「夢十夜」の続きを考えるようになった。
 弟子というのでもないのだが・・今までの不遇な身から見事に立ち直り・・物書きの才を見せてくれているような気がする・・。
 ああ、ついでなのだが、彼女がこさえてくれる食事は私にとり、正に楽しい夕餉とでも言おうか・・まあ、彼女が家庭を持つまでは見守ってあげたく候(さ~そ・う)らえ・・。


 梅雨は、不意の嵐を伴って一層激しく、そして本意に委ねるが如く開けていこうとしていた。 


 (参考迄に、少し難しい言葉と思われるかも知れないが、文中の「然有り」とは、「然(さ)有(あ)・り」で、そのとおり、そうである、という意味の言葉であり、眠狂四郎の様な武士なら「左様~さよう」とか「如何にも」と使用するのと同意語と思って良いだろう。信長の時代も良く使われた、然にあらずは、逆に、そうでなし・・)

 「Staggering Sway Steps 邦題 よろめきそうな Sway Steps」 sway は別名 キエンセラという、スタンドナンバー、本来はマンボのリズムだが、生憎手に入らず、間に合わせのビギンで済ませたので、おかしなモノに・・。

 

 

youtu.be

 

 

 

イソップ「北風と太陽」・文豪芥川竜之介作「杜子春」・「神と悪魔」

 

 本日は少々変わったお話をしながら・・案外・・人類の現代社会にも十分通用すると思われる教訓物語を二作・・更には著者europe123作=小学生でも書ける漫画レベルをLastに追加します。

 その前に・・著者の作品はおそらく300程度あると思われ・・ジャンルはと申し上げれば「純文学・時代もの・児童書・恋愛等人類社会ものその他大衆娯楽もの・法律もの・アクションもの・宇宙空間もの・怖い所謂ショートショート・歴史・詩・科学=医学・物理などに関連するもの~・寅さんシリーズや相棒シリーズのような所謂二次作品もどき=二次作品とは、既に公開されている映画やドラマなどのキャラクターのみ登場させ、似たような雰囲気を醸し出すことを意図し創作した、但し、ストーリーは全くオリジナルの別物、の事を此処では言います。勿論、登場人物の名前などは別の=もどき~ですが、仮に、名前が寅さんにsituationが同じであれば・・真似事となり、出版等は出来ません。著者は内容も目的も異なるのでその範疇ではない事になりますが、実際には4作しか存在しません~」

 

 先ずは・・イソップ童話から「北風と太陽」。

 

北風と太陽

  北風と太陽が、どちらが強いかでいいあらそっていました。
  議論ばかりしていてもきまらないので、それでは力だめしをして、旅人の着ものをぬがせたほうが勝ちときめよう、ということになりました。
  北風がはじめにやりました。
  北風は思いきり強く、
「ビューッ!」と、吹きつけました。
  旅人はふるえあがって、着ものをしっかり押さえました。
  そこで北風は、いちだんと力を入れて、
「ビュビューッ!」と、吹きつけました。
  すると旅人は、
「うーっ、さむい。これはたまらん。もう1まい着よう」
と、いままで着ていた着ものの上に、もう1まいかさねて着てしまいました。
  北風はがっかりして、
「きみにまかせるよ」と、太陽にいいました。
  太陽はまずはじめに、ぽかぽかとあたたかくてらしました。
  そして、旅人がさっき1まいよけいに着たうわ着をぬぐのを見ると、こんどはもっと暑い、強い日ざしをおくりました。
  じりじりと照りつける暑さに、旅人はたまらなくなって、着ものをぜんぶぬぎすてると、近くの川へ水あびにいきました。

 これは原文ではありませんが・・謂わんとするところは「力で押し付けるのではなく、互いに手を取りあう事から物事は改善し世界や社会も発展をする」という趣旨で、以前にも申し上げましたが、人類にはとても苦手な事と言え・・正に、東西諸国の融和が図れないのではなく・・図ろうとするどころか・・益々、争いを産みだす事を他国に要請しているのが現状です。

 この国のような、歴史上、中央集権型の黄色人種は、天皇制であったり、貴族の傀儡政権や武士の幕府支配の基に育ってきた・・しかも、鎖国を経た島国。

 ところが、敗戦後は独自の主義を貫くことが叶わず、USAの属国となり、未だに西側諸国の同盟国を欲する事を疑わない国民となり・・或る意味、中央集権の代替え下とも言えるでしょう。

 国民の意思がそうであれば、致し方が無い事でもありますが、理想は「どこの国とも自由に交易を行い和をきする中立国ではないでしょうか」・・明治以降、西洋の民主主義を取り入れ・・日清・日露・第一次大戦を経、勢いに乗った挙句、やらかしたのが、敗北に繋がりました。

 ところが、その教訓が活かされていない・・要は「食料」「資源等物資」が無かった事に起因しているのに・・どうでしょう・・世界は分裂だけでなく・・意地を張り続け、小っぽけな惑星を同じ色に塗り替える事を望んでいる・・結果は・・経済から治安その他に至るほぼ全てが悪化の一途、当然、貧困の差が増すと共に、生活が苦しくなる。

 著者は何不自由なく・・人類社会から離れていますから、何も支障が無く不安もさらさらない・・しかし、あなた方人類の事に関しては多少心配になる。

 宇宙空間では・・とても通用する事ではなく・・人類のような原始的な生命体は、自己しか存在しないと勝手な判断をする・・全く何事も異なる広大且つ果ての無い空間に於いては・・微生物にも匹敵しなく・・太陽系消滅を待つばかり=恒星減衰に衛星離脱現象は続く一方だが・・残念ながら「その時」までに太陽系脱出は不可能。

 もう一つ、パラドックス=逆説~のように感じるだろうが・・人類の歴史は争い=戦争~により、技術力が進歩してきた・・かろうじて、電気関係の製品・バッテリーとIT関連は表向き技術革新のように見えるが・・ガソリン車は年式に係わらず十万キロ走って当然。自動車メーカー曰く「軽四輪は価格300万・普通車はそれ以上ですが・・装備が充実していますから・・」・・これなのだが・・装備に無駄な機能・・例えば、必要な装備とは、せいぜい・・フォグランプ=例えば、夏の箱根の急カーブでは濃霧が発生するので、一メートル先も全く見えない。その際はフォグランプでセンターラインを写照らし出し、センターラインに沿ってそろそろ走るか・・やめるか・・そうでなければ、ガードレールを突っ切って谷底に落ちる・・ダブルフォーン・ETC・ナビその他一式・・その他・・信号待ちでヘッドライトoffが出来ない・・その他。

 で・・肝心な運転技術のレベル低下・・車の幅が分からず・・必ず、対向車が来れば、十分の幅員でも停止するしかない・・マニュアル車が無い一方・・automaticのギアチェンジ・シフトダウンを頻繁に使用しなく、ブレーキのみに頼る・・その他・・。

 進化以前からの動物の本能である争い・・おかしな平和が続いている現代と昭和だけでも比較をしてみると・・人口減・犯罪増・社会全体が斜陽・・一例で・・70年代は・・十年定期貯蓄で元本が二倍=勿論利息には課税が伴うが~公社債も高く・・現代の結果は、ギャンブルである投資に頼るしかないが・・安全ではない。

 そこに・・世界構造不況・・将来年金資源不足・国の負債1900兆円から増・・先日、公務員の若い女性に尋ねてみたら・・「そういう事言わないでください・・以前、皆でその事を考えた事があるので・・結果何も考えないようにしているんですから・・」

 要は世代交代による能力不足が顕著に・・。 

 実は、現代では文章を読むことが少ない傾向にある。animation・漫画・画像・スマフォ歩き・・パソコンによる文章変換・・。

 そんな事はどうでも良い・・

 

 

 さて・・次の、芥川龍之介作「杜子春」・・小説と雖も、文豪たちの存在は侮れなく・・夏目漱石を筆頭に木曜会弟子の芥川その他・・菊池寛小説の神様志賀直哉・文章の奇麗な川端康成武者小路実篤・谷崎・・挙げればきりがない・・。

 今回は、親と子がテーマ・・。

 次回は土曜を予定だが・・場合によっては、天才夏目漱石をテーマにとり・・その中から「夢十夜」本物の第六話を。

 更に、当然ながら遥かに劣るが・・著者の第十一夜も掲載する予定。

 

 

 

 芥川龍之介作「杜子春青空文庫から、著作権無し。

 

 


 ある春の日暮です。
 とうの都洛陽らくようの西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
 若者は名を杜子春といって、元は金持の息子でしたが、今は財産をつかい尽して、その日の暮しにも困る位、あわれな身分になっているのです。
 何しろその頃洛陽といえば、天下に並ぶもののない、繁昌はんじょうきわめた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶったしゃの帽子や、土耳古トルコの女の金の耳環みみわや、白馬しろうまに飾った色糸の手綱たづなが、絶えず流れて行く容子ようすは、まるで画のような美しさです。
 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身をもたせて、ぼんやり空ばかりながめていました。空には、もう細い月が、うらうらとなびいたかすみの中に、まるで爪のあとかと思う程、かすかに白く浮んでいるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」
 杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。
 するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目すがめの老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、じっと杜子春の顔を見ながら、
「お前は何を考えているのだ」と、横柄に声をかけました。
わたしですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」
 老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答をしました。
「そうか。それは可哀そうだな」
 老人はしばらく何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、
「ではおれがいことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中よなかに掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金おうごんまっているはずだから」
「ほんとうですか」
 杜子春は驚いて、伏せていた眼をげました。ところが更に不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりもなお白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠こうもりが二三匹ひらひら舞っていました。


 杜子春は一日の内に、洛陽の都でもただ一人という大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそっと掘って見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。
 大金持になった杜子春は、すぐに立派なうちを買って、玄宗げんそう皇帝にも負けない位、贅沢ぜいたくな暮しをし始めました。蘭陵らんりょうの酒を買わせるやら、桂州けいしゅう竜眼りゅうがんにくをとりよせるやら、日に四度よたび色の変る牡丹ぼたんを庭に植えさせるやら、白孔雀しろくじゃくを何羽も放し飼いにするやら、玉を集めるやら、にしきを縫わせるやら、香木こうぼくの車を造らせるやら、象牙ぞうげの椅子をあつらえるやら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。
 するとこういううわさを聞いて、今まではみちで行き合っても、挨拶あいさつさえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日ごとに数が増して、半年ばかりつ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又さかんなことは、中々なかなか口には尽されません。ごくかいつまんだだけをお話しても、杜子春が金のさかずきに西洋から来た葡萄酒ぶどうしゅんで、天竺てんじく生れの魔法使が刀をんで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠ひすいはすの花を、十人は瑪瑙めのうの牡丹の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴をふし面白く奏しているという景色なのです。
 しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。そうすると人間は薄情なもので、昨日きのうまでは毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさえ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸すどころか、今ではわんに一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
 そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目すがめの老人が、どこからか姿を現して、
「お前は何を考えているのだ」と、声をかけるではありませんか。
 杜子春は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いたまま、暫くは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じように、
「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」と、恐る恐る返事をしました。
「そうか。それは可哀そうだな。ではおれがいことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから」
 老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、き消すように隠れてしまいました。
 杜子春はその翌日から、たちまち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変らず、仕放題な贅沢をし始めました。庭に咲いている牡丹の花、その中に眠っている白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使――すべてが昔の通りなのです。
 ですから車に一ぱいにあった、あのおびただしい黄金も、又三年ばかり経つ内には、すっかりなくなってしまいました。


「お前は何を考えているのだ」
 片目すがめの老人は、三杜子春とししゅんの前へ来て、同じことを問いかけました。勿論もちろん彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやりたたずんでいたのです。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです」
「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの――」
 老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉をさえぎりました。
「いや、お金はもういらないのです」
「金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな」
 老人はいぶかしそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。
「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想あいそがつきたのです」
 杜子春は不平そうな顔をしながら、突慳貪つっけんどんにこう言いました。
「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」
「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従ついしょうもしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。やさしい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」
 老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。
「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」
 杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、
「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子でしになって、仙術せんじゅつの修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜ひとよの内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい」
 老人はまゆをひそめたまま、暫くは黙って、何事か考えているようでしたが、やがて又にっこり笑いながら、
「いかにもおれは峨眉山がびさんんでいる、鉄冠子てっかんしという仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好さそうだったから、二度まで大金持にしてやったのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう」と、快くねがいれてくれました。
 杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に御時宜おじぎをしました。
「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にしたところが、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第で決まることだからな。――が、ともかくもまずおれと一しょに、峨眉山の奥へ来て見るがい。おお、さいわい、ここに竹杖たけづえが一本落ちている。では早速これへ乗って、一飛びに空を渡るとしよう」
 鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口のうち咒文じゅもんを唱えながら、杜子春と一しょにその竹へ、馬にでも乗るようにまたがりました。すると不思議ではありませんか。竹杖は忽ち竜のように、いきおいよく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。
 杜子春きもをつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青い山々が夕明ゆうあかりの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に紛れたのでしょう)どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白いびんの毛を風に吹かせて、高らかに歌をうたい出しました。

あしたに北海に遊び、くれには蒼梧そうご
袖裏しゅうり青蛇せいだ胆気粗たんきそなり。
三たび岳陽に入れども、人らず。
朗吟して、飛過ひか洞庭湖どうていこ

 


 二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞いさがりました。
 そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空なかぞらに垂れた北斗の星が、茶碗ちゃわん程の大きさに光っていました。元より人跡じんせきの絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、うしろの絶壁にえている、曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
 二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、
「おれはこれから天上へ行って、西王母せいおうぼに御眼にかかって来るから、お前はその間ここに坐って、おれの帰るのを待っているがい。多分おれがいなくなると、いろいろな魔性ましょうが現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言ひとことでも口をいたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。いか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」と言いました。
「大丈夫です。決して声なぞは出しません。命がなくなっても、黙っています」
「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」
 老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨って、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。
 杜子春はたった一人、岩の上に坐ったまま、しずかに星を眺めていました。するとかれこれ半時はんときばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物にとおり出した頃、突然空中に声があって、
「そこにいるのは何者だ」と、叱りつけるではありませんか。
 しかし杜子春は仙人のおしえ通り、何とも返事をしずにいました。
 ところが又暫くすると、やはり同じ声が響いて、
「返事をしないと立ちどころに、命はないものと覚悟しろ」と、いかめしくおどしつけるのです。
 杜子春は勿論黙っていました。
 と、どこから登って来たか、爛々らんらんと眼を光らせたとらが一匹、忽然こつぜんと岩の上におどり上って、杜子春の姿をにらみながら、一声高くたけりました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、はげしくざわざわ揺れたと思うと、うしろの絶壁の頂からは、四斗樽しとだる程の白蛇はくだが一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。
 杜子春はしかし平然と、眉毛まゆげも動かさずに坐っていました。
 虎と蛇とは、一つ餌食えじきねらって、互にすきでもうかがうのか、暫くは睨合いのていでしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が虎のきばまれるか、蛇の舌にまれるか、杜子春の命はまたたく内に、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消えせて、後には唯、絶壁の松が、さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました。
 すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、すさまじくらいが鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しょにたきのような雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変のなかに、恐れもなく坐っていました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、くつがえるかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴がとどろいたと思うと、空にうず巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。
 杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡って、向うにそびえた山々の上にも、茶碗ほどの北斗の星が、やはりきらきら輝いています。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯いたずらに違いありません。杜子春ようやく安心して、額の冷汗ひやあせぬぐいながら、又岩の上に坐り直しました。
 が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐っている前へ、金のよろい着下きくだした、身のたけ三丈もあろうという、おごそかな神将が現れました。神将は手に三叉みつまたほこを持っていましたが、いきなりその戟の切先きっさき杜子春むなもとへ向けながら、眼をいからせて叱りつけるのを聞けば、
「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地開闢かいびゃくの昔から、おれが住居すまいをしている所だぞ。それもはばからずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。
 しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然もくねんと口をつぐんでいました。
「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属けんぞくたちが、その方をずたずたにってしまうぞ」
 神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満みちみちて、それが皆やりや刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。
 この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、おこったの怒らないのではありません。
「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ」
 神将はこうわめくが早いか、三叉の戟をひらめかせて、一突きに杜子春を突き殺しました。そうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しょに、夢のように消え失せた後だったのです。
 北斗の星は又寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向あおむけにそこへ倒れていました。


 杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
 この世と地獄との間には、闇穴道あんけつどうという道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹きすさんでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯の葉のように、空を漂って行きましたが、やがて森羅殿しんらでんというがくかかった立派な御殿の前へ出ました。
 御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取りいて、きざはしの前へ引き据えました。階の上には一人の王様が、まっ黒なきものに金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねてうわさに聞いた、閻魔えんま大王に違いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへひざまずいていました。
「こら、その方は何のために、峨眉山の上へ坐っていた?」
 閻魔大王の声はらいのように、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答えようとしましたが、ふと又思い出したのは、「決して口をくな」という鉄冠子のいましめの言葉です。そこで唯かしらを垂れたまま、おしのように黙っていました。すると閻魔大王は、持っていた鉄のしゃくを挙げて、顔中のひげを逆立てながら、
「その方はここをどこだと思う? すみやかに返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責かしゃくわせてくれるぞ」と、威丈高いたけだかののしりました。
 が、杜子春は相変らずくちびる一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度にかしこまって、たちま杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。
 地獄には誰でも知っている通り、つるぎの山や血の池の外にも、焦熱地獄というほのおの谷や極寒ごくかん地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春ほうりこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮をがれるやら、鉄のきねかれるやら、油のなべに煮られるやら、毒蛇に脳味噌のうみそを吸われるやら、熊鷹くまたかに眼を食われるやら、――その苦しみを数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる責苦せめくわされたのです。それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言ひとことも口を利きませんでした。
 これにはさすがの鬼どもも、あきれ返ってしまったのでしょう。もう一度よるのような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春きざはしの下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言う気色けしきがございません」と、口をそろえて言上ごんじょうしました。
 閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、
「この男の父母ちちははは、畜生道ちくしょうどうに落ちている筈だから、早速ここへ引き立てて来い」と、一匹の鬼に言いつけました。
 鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、又星が流れるように、二匹のけものを駆り立てながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしいせ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。
「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」
 杜子春はこうおどされても、やはり返答をしずにいました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、いと思っているのだな」
 閻魔大王は森羅殿もくずれる程、すさまじい声でわめきました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」
 鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄のむちをとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈みしゃくなく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所きらわず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身をもだえて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程いななき立てました。
「どうだ。まだその方は白状しないか」
 閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えにきざはしの前へ、倒れ伏していたのです。
 杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、かたく眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、ほとんど声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙って御出おいで」
 それはたしかに懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、うら気色けしきさえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気けなげな決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、まろぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬のくびを抱いて、はらはらと涙を落しながら、「おっかさん」と一声を叫びました。…………


 その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやりたたずんでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」
 片目すがめの老人は微笑を含みながら言いました。
「なれません。なれませんが、しかしわたしはなれなかったことも、かえって嬉しい気がするのです」
 杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」
「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急におごそかな顔になって、じっと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいというのぞみも持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきたはずだ。ではお前はこれから後、何になったらいと思うな」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
 杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子がこもっていました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前にはわないから」
 鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方

を振り返ると、
「おお、さいわい、今思い出したが、おれは泰山たいざんの南のふもとに一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の

花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。


 

 

 最後は・・著書の中でも最も幼稚な作品で・・小学生でも書ける漫画ネタもの。神も悪魔も不在・・だが、人類誕生の折、宇宙から授けられた安堵が神だった・・人類は皮肉な事にその後、悪魔を創造した。 

 

 「神と悪魔」

 

 グリムは嘯いた、「俺はこの世の神だ。俺に叶うやつはいない」

 

 グリムは、このワールドを完全に支配していた。 金は幾らでもあるし、勿論、女にも事欠かない。カジノや酒場などもグリムが牛耳っている。

 軍隊もグリムの配下にある。だから、悪逆非道の限りを尽くして来た。

 先の世界大戦で人類は殆どが滅亡した。他にも街の様なものはあるが、交流は無い。

 偶に流れ者がワールドを訪れる事はあるが、出て行く事は無い。

 生きては出られないから。

 そんなワールドにも、グリムに反発する若者達が現れた。

 ジェイを初めとする数人は、俗に言う地下組織で、街の教会を占拠している武装集団だ。

 地下組織の存在はグリムの耳にも入っている。

 ワールドの住民は、「若者達は皆殺しにされるだろう」と誰もがそう思った。

 数人で軍隊を相手にして勝てるのかと。

 そんな時、二人の流れ者がワールドにやって来た。

 一人の流れ者は教会には入らず、ジェイ達に加勢して軍隊と戦った。

 そして、意外にもワールドに於ける力関係は逆転していった。 

 グリムは、形勢が不利になり、自分の身が危うくなると呟いた、「俺はこの世の神だ。無敵だ。負ける筈は無い」

 しかし、形勢は変らなかった。グリムは教会に向かうと、ジェイに言った、「神のこの俺がお前達に殺される訳はない」

 それを聞いていた流れ者は、薄笑いを浮かべると、「お前が神?やって来た事は、悪魔のようだったが」

 その流れ者は、人間業では無い力で、持っていた剣をグリムの胸に突き立てた。

 ジェイは狂喜して、「素晴らしい。あなたが本物の神だ」

 その流れ者は、ワールドを去る直前に、「人は俺を悪魔と呼ぶ。神などいるわけがない。その上、俺の真似をするなどとんでもない。折角、この世に大戦を起こしたのに・・」

 そう言うと、炎の様な目をキラリと光らせ笑った。

それを見ていたもう一人の流れ者が、「あんたが悪魔なのか、道理で強い訳だ」
と笑いながら流れ者の背に手を触れた。

途端に背中が溶けていく。

流れ者は、溶けていく自分の身体を見ながら、大きな声で叫んだ。

 

「お前!まさか・・?」


次は、土・日を予定しています。 

 

於大東亜戦、連合軍の紫電改コードネーム「George21」そして・・母と少年。 

 

 

 山田幸雄は小学5年生。学校から帰って来ても、母は近くのスーパーでパートで働いているから一人ぼっちだ。父は一昨年病で亡くなった。
 母から、帰ってきたら宿題をやってから遊ぶ事と言われているので、宿題をやった。プラモデルを持って風呂に入った。給湯器で温められた湯に戦艦大和を浮かべて遊んでいたが、飽きて来たので大和を湯の中に沈めた後、「大和、発進!」と言いながら手を放すと、大和は湯の中からゆっくりと浮上して来た。
 あまり水を入れると壊れるかとちょっと心配しながら、風呂を出て母が作ってくれた遊び着に着替えた。シーンと静まり返った部屋は何となく寂しいので、テレビをつけた。「男の人が、先週・・国の航空機が飛来したので、スクランブル発進した自衛隊機がロックオンされた件で・・」
 幸雄はリモコンでチャンネルを変えたが、面白そうなアニメとかはやっていない。大和をタオルで拭いてから、乾かそうかと窓際に置いた。今度は、プラモデルの紫電改を持って表に出た。父が亡くなってから、この住宅に引っ越しして来たばかり、母が家賃が安いからと言っていた。だから、まだ一緒に遊んでくれる友達はいない。父が生きている間に一緒に作ってくれたものだから、二つのプラモデルには父の想い出が。
 父が作りながら、
「幸雄さあ。この紫電改と言う飛行機は、USAのF6F ヘルキャットに似ていたから、味方の陸軍機や大和からも間違えられて誤射される事もあったんだよ。昭和26年に来日した米空軍将校団の中にアメリカで紫電改をテストした中佐がいて、『ライトフィールドで紫電改に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。どの米戦闘機も紫電改に勝てなかった。ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった』って言っていたんだ。こんな話、幸雄にはちょっと難しかったかな。でもね、最後の飛行機として優秀だったんだよ」。
 幸雄は難しい言葉は理解できなかったが、優秀な飛行機だとは思った。

 

 

(1945年(昭和20年)3月19日343空は初陣で米艦上機160機に対し、紫電7機、紫電改56機で迎撃して、米軍機58機撃墜を報告した。日米双方に戦果誤認はあったが、日本最後の大戦果となった。343空の活躍で戦後は「遅すぎた零戦の後継機」として認知され、零戦、隼、疾風と並ぶ代表的な日本軍機として一般に認知される。米技術雑誌『ポピュラーメカニック』では、米空軍の試験で紫電改のマグネットを米製に替え、100オクタン燃料を使って空軍で飛行した結果、速力はどの米戦闘機にも劣らず、機銃威力は一番強いと紹介された。 ピエール・クロステルマンの著書「空戦」では、紫電改が高度6,000mでP51マスタング44年型と同程度のスピードを発揮したことからマスタング44年型のカタログスペックを基準とした最高速度時速680km説を採用しており、当時の連合軍の空軍関係者はその程度の速度と認識していた。)

 

 

 一人で遊んでいる内に、幸雄はおかしな事に気が付いた。
 周りが止まって見える。人や公園のブランコも。
 見た事も無い様なスクリーンの様なものが、幸雄の目の前の空間に浮かんでいる。
 スクリーンには何処かの国の飛行機が何機か飛んでいる映像が。突然、幸雄の持っている紫電改と同じ飛行機の編隊が、30機くらい雲の中から次々に姿を現し、それらの飛行機の正面に。画面はアップされ、その飛行機の操縦席にいる何処かの国の人がビックリしている、紫電改を見て急回避する。何機かの紫電改は旋回をして相手の飛行機の後ろにピタリとつけた、あとの紫電改は相手の飛行機を周りから取り囲んでいるから、相手の飛行機は動くに動けない、接触しそうなくらいに近付けている。紫電改にしては、速度が異常に速すぎる。幸雄の持っているモノと違うところは日の丸の赤が見えない。
 突然、画面が変わった。(北緯30度43分 東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176km、鹿児島県の宇治群島宇治向島西方144km)。海中から巨大な戦艦が浮上して来た。46cm主砲3基9門を備えているから、多分、大和だろう。それにしては、先端に菊の紋章が無いし、後方の海軍旗が無い。
 幸雄は笑いながら、「何だ、さっきのお風呂と同じじゃない」。 
 大和は空に向け、主砲を次々に発射、凄まじい音がする。幸雄は、それを見て耳を両手で塞ぎながらも感動している。一方、何処かの飛行機は、あっという間に遠ざかって行った。
 夕闇が迫って来る。何時の間にかスクリーンはその闇に溶け込むように無くなり、母が幸雄を呼ぶ声がする。
「お帰り」。幸雄は、買い物袋を重そうに持っている母に近付くと、一緒に袋を持ってやりながら、「宿題は全部済ませたからね」と言うと、母はニコッと笑った。
 母はテレビをつけた。「・・来季の防衛予算は・・」
 リモコンのチャンネルを変えた、「天皇交代に使用する車は8000万円・・」。
 またチャンネルを変える。「・・UKと言えばバッキンガム宮殿を思い浮かべる方も多いでしょうが、世界でも珍しい現役の宮殿ですが。実際、エリザベス女王は平日はここに住み、実務に当たっています。(週末はウィンザー城に滞在。)要は女王の家を一般観光客に公開しているわけで、寛大な王室だと言われておりますが、この一般公開の入場料も、立派なイギリス王室の収入源。
  ちなみに、中で売っているグッズも立派なイギリス王室の収入源。
 実は、イギリス王室は、こういった観光収入や不動産収入により、自分たちで稼いだお金で生活してるんですよね。(日本の場合は、皇室の費用は国家予算で賄われてます。)今日は評論家の・・さんをお招きしてこういった事について伺いたいと思いまして・・」。

 

 

 母は、すぐにテレビを消しながら、「生活するだけで精一杯、関係無い・・」と言いながら、腰を叩き、背を伸ばす。
  幸雄は学校で、「天皇は象徴」と習った。そこで、母に、「母さん、象徴って何?総理大臣とどっちが偉いの?」
 母は、室内を忙しそうに歩きながら、「ええ?天皇?戦争中はね、兵隊さんが「天皇陛下万歳」って言って死んでいったそうだよ。本当は、「母さん」って言って死ぬ人が多かったらしいけどね。そういう事はお父さんが生きてればね、詳しかったんだけど。でも、総理大臣ってのは、始終変わるから、頭のいい人が総理大臣になってくれれば、生活も楽になるかも知れないけど、まあ、無理だね。金の無駄遣いばかりして、全く役に立たない人間ばかりだね」

 

 

 幸雄は両手にプラモデルを持ちながら呟いた。「あれは、きっと、お父さんが見せてくれたんだな」
 幸雄は、晩御飯の支度をしている母の背中を見ながら、「お母さん。明日休みだったよね」
 母は菜を刻んでいる手を止め振り返ると、「ああ、偶には休まなきゃ、これだよ」と、肘枕の仕種をする。
 幸雄は微笑みながら、「ならさあ、明日の朝はゆっくり寝てなよ。それから、お父さんのお墓参りに行こうよ」
 幸雄は布団に入ってから、横に寝ている母を見た。よっぽど疲れているのだろう。もう寝息をたてている。
 幸雄はそんな母に、「有難う。僕の為に一生懸命働いてくれて」。
 そして、眠くなったから良くは分からなかったけれど、父がこちらを見ていて、ニッコリ笑いながら、「どうだった?少しは面白かったか?」と言ったような気がした。
 幸雄は眠くてもう限界だ、「父さん明日、会いに・・うん・・お休み・・」すっかり・・夢の中。

 


 まん丸な月が、小さな窓の開いている隙間から、光を注ぎながら、
「頑張れよ!俺も見ているから」。

 

 

 明日も小説のみ掲載予定。