水野哉が、此の街に引っ越しして来てから、時々、此の二階の窓から見える庭園を見る。
どうという事も無い庭園だが、都心から離れた此の地方には、大して興味を感じるところが無い。
立ち並んでいる家並みを見ても、遠くに見える街の灯りを見ても、都会にいた時と大して変わり映えがしない。
此の窓から見える庭園は、公園でもある。
賑やかに子供達の声が響いている日もあるが、やはり、静かな中に花や草が入り乱れて生えている様は、見ていても落ち着く。
絵に描いても素晴らしいのではと思うのだが、残念ながら哉は、そういう才能は無い。
最近、時々、庭園のベンチに座っている女性を見かけるようになった。
それが、庭園と女性の双方がマッチして、美しさを感じると言っても過言では無いだろう。
女性は、何処かの娘さんなのだろうが、此の庭園の何かが気に入って、ベンチに座っては、本を読む事もあるし、時々訪れる小鳥を相手にして、飽きもせず寛いでいる。
小さな池もあるから、小鳥達は其処で水を飲んだり、木々にとまったりして、静かな時をつくりだしている。
女性の服装も和服であったり、普通のドレスであったりするから、何か稽古事でもしているのか、それとも、仕事の関係なのかは分からないが、ベンチに腰掛けている様は暖かな美しさを感じる。
小鳥達と草木や花と池に、女性の姿は印象派の絵画から抜け出してきた様な、独特の雰囲気を醸し出している。
印象派と言えば、光を色彩で上手に表現している事で評価されている。
本当は、庭園もさることながら、女性だけでも、その清楚な美しさを感じさせるものがある。
だから、哉は、庭園だけでなく、女性の服装にも関心がある。
今日は、どんな服だろうとか、庭園に不思議にマッチしている姿を見ては、哉は何とも言えない心のときめきを感じるのだ。
女性の清楚な顔は、周りに溶け込んでいるのだが、灰汁が全くない自然さに付け足すように、余計な色彩が持つ違和感を取り払っている。
哉が窓から見ている事を、あの女性は知っているのだろうかと思う事がある。
いや、知っているにしても、拘りを感じない、まるで、空気の様なものに例えれば一番表現し易いかも知れない。
哉にしても、女性に却って不自然さを感じたく無いから、なるべく、そっと、見る様にしている。
覗いている訳では無いから、二人の間には、過剰な意識が無い。
しかし、哉としても、和服を着ている時の彼女が一番気に入っている。
庭園をバックにした時に、融和するのだが、その和服の柄がセンスがあると感心する。
七五三や芸子さんが此処に座っているのでは、雰囲気をぶち壊しにしてしまうと思う。
哉は次第に、このまま見ているだけでは物足りなくなってきた。
絵画でも習おうか、とも思ったが、一足飛びに此れを描写する事は無理だと思った。
かと言って、写真に撮るのは邪道の様な気がする。
これも、余程の高度な技術を持っていて、感性が優れていないと難しいと思った。
何とか、描写をしたいが、してしまうと、大事なものが消えてしまう様な気もする。
哉は或る日、庭園に出てみる事にした。
といっても、此の雰囲気を壊さないで、情景の中に入って行く事は、至難の業では出来ない。
哉は、庭園の外側をゆっくり歩いて、女性や小動物や木々を見ながら、考えた。
此のまま、自分がベンチに近付いてしまっては、女性も驚いてしまうだろうと。
その日は、それで、部屋に戻る事にした。
次の日、哉は同じ様に庭園に出た。
やはり、女性に話し掛けてみようかなと思った。
ベンチにゆっくり近づくと、葉を踏む音に気付いて、女性が此方を振り返った。
哉と女性は軽く頭を下げて挨拶をした。
哉は、自分の名を言ってから、女性の名前を聞いてみた。
女性は「昭子と申します」と言って、微笑んだ。
その微笑んだ顔が、またいいなと思った。
此の庭園が好きなんですかと聞いてみた。
女性は頷いてからひと言。「此処には、昔、祠もあったんですよ。私のおじいさんの時代には」
そんな古くから此処に来ていたのかと思った。
哉は少し話をしてから、考えた。「やはり、此の雰囲気を崩さないようにするには、・・絵にでも挑戦してみようかな」と呟いた。
哉は午前中に二時間くらい絵の描き方を教えてくれる教室に通った。
或る程度慣れてきてから、庭園の片隅で絵を描き始めた。
庭園全体とその昔あったという祠も想像で書く事にした。
一か月も経った頃、大体絵は完成に近づいた。
女性の来ているものは和服にした。
完成した頃、女性に話をしようと思って、庭園に出た時、女性がいなくなっている事に気が付いた。
どうして、来なくなってしまったのかなと思っていろいろ考えた。「あの女性は此の庭園とは何かの縁があって来ていた様な気がする。ひょっとしたら、妖精だったのかも、それとも、幻想の中に現れていたのかも知れないな」などと考えた。
二階の窓から見ていればいなくならなかったかも知れないななどと思った。
哉は、毎日二階の窓から見ている。
と、あの女性がベンチに座っている。
「そうか、妖精はそっとしておいてあげた方がいいんだろうな」と、呟いた。
それから、哉は、毎日、窓から見るようにして、降りて行くのをやめた。
美しいものは、離れてみていた方が、庭園とマッチしていて何とも言えないからな。
そう言って、暫く掛かって描いた絵を部屋の中に飾って見てみた。
「こうしておけば、降りて行かなくたって、見れるし、雰囲気も壊す事はないからな」
今日も庭園の女性は来ている。
女性が思わず、此方の窓を見て微笑んだが、其の微笑みは一生忘れる事が無いくらい素晴らしいものだった。
ふと気が付くと、絵の中の女性も振り返り哉に微笑んでいた。
「偉大なる砂漠のキツネロンメル」
ドイツ軍にも「砂漠のキツネ」と称されるロンメル将軍がいた。此れからは、其のロンメルについて語ろうと思う。
第三帝国最後の英雄と言われている。
三国同盟国のイタリアが弱い国であった為、其れも考慮し砂漠でUKを相手に戦う事になった。
エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen RommelDe-Erwin Rommel-pronunciation.ogg 1891年11月15日 - 1944年10月14日)は、ドイツの陸軍軍人である。最終階級は陸軍元帥(最高の地位。)。
第二次世界大戦のフランスや北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。<span style="color:#FF0000;">広大な砂漠に展開されたアフリカ戦線において、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、敵対する側の英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめた。</span>アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から<span style="color:#FF0000;">「砂漠の狐」</span>の異名で世界的に知られた。
貴族(ユンカー)出身では無い、中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。数々の戦功だけでなく、騎士道精神に溢れた行動と多才な人柄で悲劇的な最期をとげたがSS(親衛隊)ではなく国防軍の所属であった。
1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論がほぼ定着しており、日本でもほぼ同様の評価が行われてきた。しかし、1970年代以降、欧米の軍事史家などによって軍人としての資質や能力について再度検証されるようになった。
<span style="font-weight:bold;">父エルヴィンは、ハイデンハイムの実科ギムナジウム(Realgymnasium)の数学教師であり(ロンメルは父の名前をそのまま与えられた)。また、祖父も教師だった。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり、地元ハイデンハイムでは、かなり尊敬されていた人物であった。
母ヘレーネは、ヴュルテンベルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である。
父母ともにプロテスタントだった。
父が若いころに砲兵隊にいたことを除いて、ロンメル家は軍隊とほとんど関係しておらず、軍部への有力な縁故もなかった。また、教養市民階級出身という彼の出自は、貴族主義的なドイツ陸軍において、決して有利であったとはいえない。
第一次世界大戦
初めての実戦、ブレド村での戦闘
1914年7月末から8月初めにかけて、第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は、1914年8月3日に開戦した。ロンメル少尉の所属する第124歩兵連隊は、第5軍(司令官ヴィルヘルム皇太子)隷下の第13軍団隷下の第27歩兵師団隷下として、対フランス戦に動員された。
ロンメルがはじめて実戦に参加したのは、8月22日午前5時頃、ベルギー南部のフランス国境付近の村ブレド(fr)だった。この時のロンメルは、前日に一日中偵察をさせられるなど疲労困憊であり、また胃痛も発症していた。しかし、実戦を前に逃げ出そうとしている卑怯者と思われるのが嫌で、上官にはそのことを黙っていた。
銃弾が飛び交う霧の中、ロンメル率いる小隊は、ブレド村に近づき、少数で村の中に偵察に入ってフランス軍に攻撃を仕掛けるも失敗し、村の外で待機していた小隊主力と合流した。ロンメルは、自分の小隊を二つに分けてすぐに再攻撃を行った。一隊がフランス兵が隠れた建物の正面から攻撃を仕掛け、もう一隊は建物側面から攻撃をかけて最初の建物を制圧した。続いて他の建物にも次々と火を放っていった。しかし、フランス軍の抵抗も強く、ロンメルの小隊から負傷者が多数出た。また、ロンメルが作戦中に疲労と胃痛でしばしば意識を失ったので、副官の軍曹が代わりに小隊の指揮を執ることがあった。その後、同じ第2大隊に所属する別の小隊が応援に到着し、加えてブレド村北東325高地がドイツ軍によって占領されたことで、ブレド村のフランス軍は投降した。
戦闘が終わった後のブレド村は、兵士たちや巻き込まれた民間人、牛馬の死体があちこちに転がり、悲惨な状態になった。ロンメルの戦友も数人戦死し、彼はずいぶん落胆したという。
次に第二次世界大戦当初及びヒトラーとの面会は省略する。ヒトラーからは随分信頼されたようだ。
西方電撃戦
1940年5月9日午後1時45分にフランス侵攻作戦「黄色作戦(Fall Gelb)」の暗号「ドルトムント」がロンメルに伝達された。これを受けてロンメルの第7装甲師団は同日午後11時40分に所定の位置に付いた。
戦局はドイツ軍に不利と思われた。ドイツ軍の戦車は2800両だったが、対する連合軍の戦車は4000両だった。戦車の装甲や火力も連合軍が勝っていた。ただ戦車の速度においてのみドイツ軍が勝っていた。そして西方電撃戦では速さが一番重要だった。ロンメルの第7装甲師団は特に素早く進軍し、しばしば師団の主力が師団の先頭に置き去りにされた。ロンメルの搭乗する戦車は常に師団の先頭に立って前進した。通常交戦が始まると身を隠すためや敵の規模・装備を確認するためにその場に停止するが、ロンメルは交戦中も常に前進を命じた。それによって敵に第7装甲師団がどこにいるのか分からなくし、敵に自ら拠点を放棄させることに繋げようとした。
ドイツ本国ではロンメルの師団は「全ドイツ軍師団のうち、最も西にいる師団」として評判だった。必要とあれば航空機に乗って後続の砲兵部隊や自動車化歩兵部隊の下に駆けつけて指示を与えたり、叱咤激励をした。部下の将兵たちの間で<span style="color:#0000FF;">「不死身のロンメル」</span>伝説が広まり、絶大な信頼を寄せられた。
第7装甲師団は、この戦争において主要な役割を割り当てられていたわけではない。<span style="color:#0000FF;">しかしその進軍スピードの速さから連合国は「いつの間にか防衛線をすり抜けている」という意味で「幽霊師団(英:Ghost Division、仏:Division Fantôme、独:Gespensterdivision)」と呼んで恐れた。
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アルデンヌの森通過
1940年5月10日午前4時35分にロンメルの第7装甲師団は国境を超えてベルギー領へ侵攻を開始した。
第7装甲師団の進路にベルギー軍が配置していたのは障害物(バリケードと橋の爆破)と軽装備のアルデンヌ猟兵第3連隊だけだった。第7装甲師団はこれらを排除しつつ急ピッチで前進した。
ドイツ軍第7装甲師団がアルデンヌの森を通過しようとしていることを察知したフランス軍は第1・第4軽騎兵師団を差し向けたが(この両軽騎兵師団は騎兵旅団と機甲旅団で編成されていた)、第7装甲師団の奇襲を受けるとすぐに西に撤収していった。
(省略)
停止命令を無視して進軍
ロンメルの師団はフラヴィオン(fr)で重戦車ルノーB1の燃料切れで停止していたフランス軍第1機甲師団と戦闘した後、ここを後続の第5装甲師団に任せて、フィリップヴィル(fr)へ進撃した。
しかし5月16日にA軍集団司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将は先頭に立って進軍する装甲師団が突出しすぎていると判断して装甲師団に進軍停止を命じた。ヒトラーもそれに同意し、5月17日の総統命令で装甲師団の進軍停止を命じた。しかしロンメルはそれでは心理戦である電撃戦の効果が薄れると考え、ヒトラーやルントシュテットの命令を無視して進軍を続けた。命令無視は本来は軍法会議にかけられるべきであるが、ヒトラーはロンメルを目覚ましい活躍をした装甲師団長として英雄化することを考えていたのでロンメルがこの命令無視によって何か処分を受けることはなかった。
ロンメルはクルト・ヘッセ大佐に「この戦争では指揮官の位置は第一線だ。私は椅子に腰かけている連中が出す戦略など信じない。今はザイトリッツやツィーテンの時代と同じだ。我々は戦車をかつての騎兵とおなじように考えねばならない。かつて将軍たちが馬上で命令を下したように、今は移動する戦車の上で命令を下さねばならない。」と語っている。
マジノ線延長部分突破
点線の部分がマジノ線延長部分
ロンメルの師団は5月16日午後6時頃にベルギーとフランスの国境を超えて、フランス領へ突入した。
その30分後、フランスの国境要塞地帯マジノ線延長部分と遭遇した。これはマジノ線そのものではなく、フランスが防衛線を西方にも延長しようとしてマジノ線から分離して作った物である。ただロンメルを含めてドイツ軍側は区別せず、まとめて「マジノ線」と呼んでいた。マジノ線延長部分はマジノ線と比べれば貧弱な防衛線であった。それでも頑強なトーチカと砲台と有刺鉄線と地雷原で固められていた。
ロンメルは砲兵に激しい砲火を撃たせてマジノ線延長部分の各所に煙幕を張り、フランス軍を攪乱している間に工兵の火炎放射器や爆薬でトーチカを破壊していった。火に照らされる明るい隙間となったその部分に戦車が砲撃しながら前進して強引に突破した。ソール・ル・シャトー(fr)、サール・ポトリ(fr)、スムージー(fr)を一気に通過してマジノ線延長部分を突破した。
マジノ線延長部分がロンメルの師団の攻撃で受けた損害は微々たるものだったが、凄まじい勢いで進軍するロンメルの師団にフランス軍はパニックを起こして、戦わずして次々と投降した。マジノ線延長部分の突破で第7装甲師団が被った損害は戦死者35名、負傷者59名だけだった。戦果はフランス兵捕虜約1万人、戦車約100両、装甲車30両、大砲20門の鹵獲であった。
アラスの戦い
ダンケルク包囲
ヒトラーと対面
ヒトラーはロンメルに「君が攻撃している間、君が無事かどうかずっと心配だったよ」と述べている。
この日、ヒトラーは召集した将軍たちに6月5日に攻撃を再開してフランスに止めを刺すことを通達した。
セーヌ川まで南進
草原に座り込んで即席の会議を行う第7装甲師団長ロンメル少将。左から二人目が第7装甲師団の主力である第25装甲連隊の隊長カール・ローテンブルク大佐。
6月5日朝に敵が爆破し損ねた橋を渡ってソンム川を渡河した。川の渡河を妨害する敵砲兵隊の陣地を慎重に落としていき、同地に配備されていた大量のフランス植民地兵を捕虜にした。
ソンム川を突破した後、ロンメルは彼が「フレーヒェンマルシュ(広域進撃)」と名付けた陣形で前進した。これは全師団を幅1.5キロ、長さ20キロに及ぶ箱形陣形にし、正面と両脇に装甲大隊を置き、後方に装甲大隊と偵察大隊を置き、中央には歩兵連隊を置くという陣形である。この陣形は外側にいる装甲大隊がいつでも全兵種の支援を受けられるため攻撃を受けた時に反撃しやすい利点があった。欠点は進軍スピードが落ちることだが、ソンム川南方・西方のようにゆるやかな起伏が続く平坦な地形においてはそちらの方が有効であった。
ロンメルの師団は順調に快進撃を続け、6月7日には48キロ以上進軍し、アミアンから海岸に至る地域を防衛していたフランス第10軍を分断した。6月8日にはさらに72キロも進撃した。
この頃には連合軍は至るところで崩壊していた。ロンメルの師団も、大ブリテン島へ逃げ帰るために英仏海峡の方へ逃れようとするイギリス軍としばしば遭遇したが、すでに彼らの指揮系統は崩壊状態であったので大した戦闘にもならなかった。テュロワで捕虜にしたイギリス軍のトラックからはテニスのラケットやゴルフクラブまで出てきたのでロンメルは「イギリス軍はこの戦争がまさかこんな結果になるとは思ってもいなかったのだな」と言って笑ったという。
英仏海峡沿岸での戦い
6月11日にサン・バレリーに接近して同市を包囲した。同市では英仏軍が大ブリテン島へ撤収するための船舶を待っていた。ロンメルは無駄な流血を避けるため、ドイツ語を話せる捕虜を使者に立てて同市の守備隊に21時までに降伏すべきことを勧告した。守備隊のうちフランス軍将校は降伏したがっていたが、イギリス軍将校は降伏に反対する者が多く、結局この勧告を拒否することになった。やむなくロンメルは21時から同市の北部や港に集中砲火を浴びせた。さらにドイツ空軍の急降下爆撃機が激しい爆撃を行った。
英仏兵は次々と投降し、ついに英軍将校たちも抵抗を諦めた。ロンメルの師団は将官12人と1万2000人(他の師団の捕虜も含めるとサン・バレリーの捕虜数は4万6000人)の捕虜を獲得した。その中にはイギリス軍ハイランド師団長ヴィクター・フォーチューン少将(en)とフランス軍の軍団長と3個師団の師団長たちが含まれていた。フォーチューン少将はロンメルのような若造に捕虜にされてしまったことに屈辱を感じていたようで露骨に態度でそれを示した。フランス軍の将軍たちはもう少し好意的だった。<span style="color:#0000FF;">彼らはロンメルに「お若いの、君はあまりに速すぎました」「私たちは貴方たちの事を幽霊師団と呼んでいたんですよ」などと声をかけたという。
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ロンメルの師団は英仏海峡沿いにさらに西進して6月14日にはル・アーブルを占領した。同市のフランス軍はすぐにも降伏している。ちなみに同日には「無防備都市宣言」をしていたパリがドイツ軍第218歩兵師団によって無血占領されている。
シェルブールへ進撃
ロンメルはフランス軍の戦意はもはやガタ落ちであろうからほとんど抵抗もあるまいと考え、「フレーヒェンマルシュ」陣形を解除して再び全速力で進軍できる縦列の陣形に戻した。予想通り、抵抗はほとんどなかったため、<span style="color:#0000FF;">ロンメルの師団は6月16日には160キロ、6月17日には320キロ以上も駆け抜けた。戦車がこれだけの走行に耐えたことが不思議なぐらいの前代未聞の大進軍であった。
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フレール(fr)、クータンスを経て、そこから北上して6月17日真夜中にはラ・アイユ=デュ=ピュイ(fr)に到着。しかしそこからシェルブールへ向かおうとした時に道路要塞から激しい砲火を浴びた。長距離の進軍に師団は疲れ切っていたので、ロンメルは砲兵や戦車の支援も無しに夜間に無理な進軍を行うのは止めた方がいいと判断し、ラ・アイユ=デュ=ピュイへ後退した。6月18日朝から要塞への攻撃を開始し、午前8時頃には早々に敵を後退させてシェルブールへの進撃を再開した。
6月18日午後1時頃にはシェルブール南西4.8キロほどのところのシェルブールを防衛する道路要塞から激しい砲撃を受けたが、午後5時頃にはシェルブール西のケルクヴィル(fr)南部の高地を占領し、歩兵連隊と二個装甲中隊がシェルブール郊外に突入した。その日の夜のうちに師団の砲兵連隊が到着したので、翌6月19日朝にシェルブール要塞や海軍ドックに砲撃を加え、要塞の中で最も厄介だった中央要塞を沈黙させた。歩兵部隊は更に郊外深くに侵入した。
激しい砲撃に耐えかねたシェルブールのフランス軍はついに午後5時に降伏した。シェルブールの3万のフランス将兵を捕虜にした。シェルブール戦終了を以って西方電撃戦におけるロンメルの師団の戦闘は終わった。
フランス降伏
ヒトラーは一次大戦におけるドイツの雪辱を果たすため、独仏の休戦交渉の場を、一次大戦でドイツが屈辱的な休戦協定に調印させられた場所であるコンピエーニュの森の列車(この列車はフランスの一次大戦戦勝記念としてパリに飾られていた。ドイツ軍パリ占領後にドイツに鹵獲された)の中とした。6月21日からここで独仏の休戦交渉が開始された。ドイツ側の過酷な要求にフランス側が調印を渋り、その日はまとまらなかったが、翌6月22日にドイツ側から「調印しないならば戦争続行」と脅迫されたため、フランス側はついに要求を受諾して独仏休戦協定を締結した。
しかし休戦協定調印の前後、ロンメルの師団はどんどん南進していた。6月21日にはレンヌを通過し、6月25日にはボルドーを占領した。更に師団の先遣隊はスペイン国境付近まで進んだ。とはいってもこの進軍に戦闘は発生しなかった。単に占領の既成事実化を図るための進軍であった。
ロンメルの師団の戦果と損害、またその評価
1940年6月、ドイツ軍占領下フランス・パリで行われた戦勝パレードに出席したロンメル少将。
西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団の戦果は、捕虜9万7000人の他、鹵獲兵器として戦車・装甲車458両、各種砲277門、対戦車砲64門、トラック4000両から5000両、乗用車1500両から2000両、馬車1500両から2000両、バス300両から400両、オートバイ300台から400台がある。また敵航空機を52機撃墜し、うち12機を地上で鹵獲している。師団の進軍スピードが速すぎたため、正確に数えられていないが、鹵獲兵器についてはこの数字よりもっと多かったといわれる。
一方で西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団が出した損害は、628名の戦死、296名の行方不明、戦車42両の喪失であった。
第7機甲師団の人的損害は他の師団より多い。ドイツ軍は西方電撃戦で4万9000人の戦死者・行方不明者を出しており、これを単純にドイツ軍135師団で割ると1個師団の平均の戦死者・行方不明者は363人になるが、ロンメルの師団は戦死・行方不明者が924人も出ている。ただしこれについてはロンメルの師団は常に電撃戦の先陣を切って戦っていたことを考慮せねばならない。戦果と比較すれば損害は少なかったといえる。
北アフリカ戦線
1942年春のロンメル上級大将
1941年2月にロンメルはドイツアフリカ軍団の軍団長となり、以降1943年3月まで北アフリカで戦い続けることになる。北アフリカにおける砂漠戦は厳しい環境の中で行われた。
まず北アフリカの気候は温暖な気候に慣れているヨーロッパ人には極めて過酷である。日中は酷暑であり、夜は厳寒である(真夏の日中には気温が60度近くになるが、逆に夜は零度近くにまで気温が下がる)。しかも夏だけ長く、他の季節は短い。長期に干ばつが続くかと思えば、突然に豪雨が来る。脱水症状、熱中症、赤痢、皮膚病などになる者が多く、また砂塵で眼病になる者も多い(防護眼鏡を付けていても小さい粒子が入り込んでくる)。加えて砂は兵器類や通信機器類の機能低下や故障も招く。砂嵐の場合はより地獄である。砂嵐にはジャミングに似た効果があり、通信機能がマヒする。
砂漠には遮蔽物がほとんどないので見晴らしがよい。すなわち遠方からでもすぐに敵に発見されるので遠距離の戦闘になる事が多く、射程距離が極めて重要な要素である。したがって歩兵は力を発揮しにくく、戦車が砂漠戦の主兵器である。また自然障害物がほとんどないので大量の地雷と障害物資材が必要となる。また目印になる物が無いために部隊移動の際に方向維持が難しく、しばしば推測航法に頼らねばならなかった。
砂漠戦において補給・兵站は非常に重要である。特に水の補給は最優先課題であり、オアシスの争奪戦によって命運が決することもある。広大な砂漠を戦車が走り回るために燃料の補給も重要である。兵站拠点となる場所が少ない砂漠戦は海上戦と似ており、兵站拠点をひとつ取られただけで広範な地域に穴があき、一気に後退しなければならなくなる。砂漠戦では補給がままならないので敵からの鹵獲兵器が重要である。1942年6月にロンメルは「我が軍の非常に多くの車両が英軍からの鹵獲品である。すでに遠くからは英軍と見分けがつかなくなってしまった」と書いている。ロンメルと彼の幕僚も北アフリカ戦において英軍のドチェスター装甲車に搭乗して指揮を執っていた。もちろん英米側もドイツ軍の兵器を鹵獲して使用している。
しかし一番厳しかったのはなんといっても独軍と英米軍では物量に差がありすぎるということだった。ドイツ軍はその分戦術でカバーしなければならなかった。戦術面では当時の英米軍は杜撰な面が多く、歴戦のドイツ軍の方が明らかに勝っていた。ロンメルは迂回戦術[# 5]と一翼包囲戦術[# 6]を駆使して優位に立つ英軍をたびたび壊滅させ<span style="color:#FF0000;">、「砂漠の狐」(英:Desert Fox)</span>の異名をとった。とはいえ戦術などではもはやどうにもならないほど物量と兵站補給能力に差が付いてしまった時、ロンメル軍団は敗北を重ね、ついには北アフリカを放棄することとなる。
<span style="color:#0000FF;">しかし北アフリカの戦場に従軍した者はそこを「騎士道の残った戦場」として記憶している者が多い。戦場となった場所が広大な砂漠であったので巻き込まれた民間人は少なかった。アフリカにはSSが来なかったので、アインザッツグルッペンが付随してきてユダヤ人虐殺を行うといったことも無かった。そしてなんといってもロンメルが騎士道を重んじる人物だったことが大きかった。ロンメルの指揮の下、この戦域のドイツ軍は騎士道精神を貫いて誇り高く戦った。ロンメルは交戦の国際条約を遵守して捕虜を丁重に取り扱った。これを感じ取った英軍もこの戦域では比較的国際条約を遵守したのである。ただし英軍側は必ずしも常に騎士道精神を貫かなかったようである。ガザラの戦いの際に英軍の文書から「ドイツ軍捕虜を従順にさせる方法」などという文書が発見されており、それを読んだロンメルは捕虜に対する英軍の非人道的取り扱いに激怒している。
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ロンメルの評価は賛否両論だった。概してナチ党政権からの評価は高かったが、軍部からの評価は低かった。
西方電撃戦中、ロンメルは何度も命令を無視して独断行動を取った。それらはすべて成功したとはいえ、上官たちからは当然不興を買っていた。またロンメルが「ヒトラー子飼いの将軍」と看做されていたことも煙たがられる原因だった。参謀本部総長フランツ・ハルダー上級大将はロンメルを「命令無視ばかりの気が狂った将軍」と酷評した。ロンメルの上官である第15軍団長ヘルマン・ホト大将はロンメルについて「機甲師団に新たな道を開いた。特に前線に立とうという意欲とテンポの速い戦闘でも決定的なポイントを察知する彼の天性の素質は称賛に値する」と評価する一方、ロンメルが軍団長になるには「もっとたくさんの経験と、より優れた判断力が必要だ」と注文を付けた。
イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗
ドイツ・アフリカ軍団長に就任
ヒトラーはイタリアの身勝手さや無能ぶりに呆れながらも、イタリアを支援することを決めた。
(第一次攻撃隊長)フンクはその1週間後にヒトラーの下に参じてイタリア軍の深刻な域に達しているデタラメぶりを報告した。ヒトラーは更に1個機甲師団を北アフリカに派遣することを決定し、その2つの師団を統括する軍団の指揮官としてロンメルを選んだ。
北アフリカ到着
進軍を禁じられる
ロンメルが求めたエル・アゲイラ攻略やアフリカ軍団増強は認められなかった。参謀総長フランツ・ハルダー上級大将はロンメルを嫌っていたのでロンメルの甘言に乗らぬようヒトラーに強く進言していた。またそもそも独ソ戦の準備を進めていたヒトラーや軍部にアフリカに余分な戦力を裂く余裕はなかった。ヒトラーや軍部にとって北アフリカ戦線は主戦場ではなく、イタリア軍を元気づけて英軍を「軽くいなしておく」だけの場所だった。結局エル・アゲイラ攻撃は5月に第15装甲師団が到着するまで待てと命じられた。
命令無視の進軍でキレナイカ地方奪還
結局エル・アゲイラ攻撃は5月に第15装甲師団が到着するまで待てと命じられた。
しかしロンメルはそのような命令に従う気にはなれなかった。英軍の戦力が分散して弱体化している今こそキレナイカ地方奪還の好機だった。1941年3月24日早朝にロンメルは「攻撃ではなく偵察」として戦車や装甲車を率いてエル・アゲイラに進軍した。驚いたエル・アゲイラの英軍は、ほとんど戦闘すること無く約50キロ後方のメルサ・エル・ブレガヘ撤退した。ロンメルはそのままエル・アゲイラを占領したが、総統命令もあり、さすがにこれ以上の進軍はためらった。ロンメルは1週間ほどエル・アゲイラに留まったが、その間、英軍の無線を傍受し、英軍が陣地の強化や兵力の増強を開始した事を知った。ロンメルはやはり5月まで待つことはできないと確信した。
3月31日にロンメルは独断で第5軽師団主力を率いてメルサ・エル・ブレガに攻撃を開始し、イギリス軍の第3機甲旅団と第2機械化旅団と交戦した。夕方まで続く激戦の末、英軍はメルサ・エル・ブレガを放棄して撤退していった。ロンメルは更に進撃を続け、4月1日にはメルサ・エル・ブレガの東80キロにあるキレナイカの交通の要衝アジェダビア村を英軍から奪取した。
4月2日、ロンメルの独断行動に激怒したガリボルディ将軍は進軍停止を命じたが、ロンメルはこれを無視して4月3日に兵力を3つに分けて3ルートから英軍の追撃を開始させた。
一方、4月3日にエジプト・カイロではキレナイカ英軍の不甲斐なさに激昂した英軍中東軍司令官ウェーヴェル大将がニーム中将を解任してオコーナー中将をキレナイカ英軍司令官に復帰させると命じていたが、オコーナーはこのような流動的戦況において司令官を挿げ替えるのは危険であるとして自分とニームの二人で当たるべきであると主張した。ウェーヴェルも了承して二人にキレナイカ防衛を任せた。しかしあまりに電撃的に侵攻してくるロンメルの軍団を前にキレナイカの英軍司令官は次々と捕虜になっており、オコーナー中将とニーム中将を乗せた車も4月6日夜に道に迷っていたところをロンメル軍団のオートバイ部隊に発見されて捕虜になってしまった。キレナイカ英軍はいきなり総司令官を失い、指揮系統が滅茶苦茶になった。
ロンメルは英軍の補給拠点となっている「キレナイカの心臓」と呼ばれるメキリ(en)の占領を狙い、三手に分けて進軍させている三部隊をメキリに結集させることにした。4月7日にメキリは完全包囲された。ロンメルはメキリの英軍に降伏を勧告したが、英軍は降伏を拒否した。英軍は暗くなったのを見計らって強引な包囲突破を図ろうとしたがドイツ軍に阻まれて失敗し、英軍第2機甲師団長ギャムビエ・ペリー准将以下英軍将兵2000人が捕虜となった。また英軍の物資や各種車両を大量に鹵獲した。ロンメルはその中に英軍の対ガス用ゴーグル(アイシールド)を見つけた。これをやたら気に入った彼は自分の将官帽に取り付けた。以降このゴーグルはロンメルのトレードマークとなった。
メキリを失った英軍は総崩れになり、トブルクを除くキレナイカ地方からの撤退を余儀なくされた。英軍中東軍司令官ウェーヴェルが二カ月かかって占領したキレナイカをロンメルは10日間で奪い返した。英軍が進軍ルートに立てていた「ウェーヴェルの道(ウェーヴェルズ・ウェイ)」の看板はドイツ兵によって「ロンメルの道(ロンメルス・ヴェーク)」と書き替えられた。
トブルク包囲戦
エジプトのハルファヤ峠占領と防衛
その後、エジプトの英軍は英本土からマチルダ歩兵戦車やクルセーダー巡航戦車など238両の戦車の増援を受けて強化された。チャーチルはウェーヴェルにこの戦力を使ってトブルクの包囲を解くための反撃作戦「バトルアクス作戦(戦斧作戦)」を開始するよう命じた。イギリス側はパウルスの報告書を傍受してエジプト国境のドイツ軍部隊が軽装備であることを掴んでいた。しかしドイツ側も無線の傍受で英軍が攻勢をかけようとしている事を察知した。ロンメルはエジプト国境付近の防備を整えさせた。
アラスの戦いの時と同様に88ミリ高射砲を対戦車砲として使うことでこれに対抗した。88ミリ高射砲の存在を悟られぬように隠し、また指揮官ヴィルヘルム・バッハ少佐(en)の88ミリ高射砲の適切な運用によりマチルダII歩兵戦車を午前中の戦闘で11両、午後の戦闘で17両も破壊することに成功した。その後もハルファヤ峠のドイツ軍は88ミリ高射砲を最大の武器として峠を死守した。88ミリ高射砲の恐るべき火力に英軍はハルファヤ峠を「ヘルファイヤ(地獄の業火)峠」と呼んで恐れた。
ロンメルは英軍の第4機甲旅団と第7機甲旅団がほとんど連携が取れていないことを見抜き、第5軽師団と第8装甲連隊を並行して進軍させ、英軍の二つの旅団の間隙を突破するよう命じた。第5軽師団と第8装甲連隊は10キロも離れていたため、まず両部隊は目前の敵と交戦を続けたが、徐々に移動を開始し、6月16日夕刻にはシジ・オマール東に到着した。そして6月17日の夕方にはハルファヤ峠に展開する英軍の背後に回り込むことに成功した。突然背後に敵部隊が出現したことで英軍はパニックを起こして総崩れとなった。6月17日午後にウェーヴェル大将が戦況視察に訪れたが、その時にはすでに英軍は敗走中であり、それを知った彼は愕然とした。
物量的には英軍が圧倒していたはずであった。またこの戦域は英空軍が制空権を握っており、英軍は航空支援をたくさん受けていた。にも関わらず、3日間に及んだ英軍の反撃作戦「バトルアクス作戦」は完全なる失敗に終わった。この作戦で英軍戦車は100両以上大破した。対してドイツ軍戦車はわずか12両が大破しただけだった。
ロンメルの評価高まる
ベルリンのヒトラーはロンメルの活躍を高く評価した。ヒトラーは1941年7月1日付けでロンメルを装甲大将に昇進させた。一方ロンドンのチャーチルはウェーヴェルの無能を呪った。チャーチルは6月21日付けでウェーヴェルを中東方面軍司令官から解任し、代わって7月5日付けでクロード・オーキンレック大将を就任させた。
「クルセーダー作戦」で追い込まれる
イギリスはクルセーダー作戦の前にロンメルの誘拐・暗殺を計画したフリッパー作戦を実行するも失敗に終わっている。
11月18日午前に土砂降りの雨の中、英軍は「クルセーダー作戦(十字軍作戦)」を開始した。この日ロンメルはローマから司令部に戻ったばかりで午後になって初めて英軍の攻勢を知った。また攻勢を知らされても初めは本格的な攻勢ではあるまいと思っていたという。
独伊軍は挟み撃ちにあってしまった。
英軍が予想通りに動いてくれず、戦局はロンメルとオーキンレックの「我慢比べ」となり始めたが、補給状況や兵力配置から考えて独第21装甲師団の方が先に壊滅する可能性が高かった。ロンメルが前線視察で不在の間、ロンメルの作戦主任参謀ジークフリート・ヴェストフェル中佐(de)が独断で独第21装甲師団の撤収を命令した。はじめロンメルはこれに激怒したが、司令部に戻って再検討した結果、ヴェストフェルの判断は正しいと判断して攻勢中止を決意した。
だが独伊軍に以前ほどの悲壮感はなかった。英軍は何の戦略もなく単に物量差で強引に押しただけであり、しかも受けた損害は両軍痛み分けという感じだった。独伊軍は戦車300両を失ったが、英軍も270両以上失っていた。また独伊軍は3万8000人の将兵を失っているが、その大部分はイタリア兵であり行方不明者だった(イタリア逃亡兵が多いと思われる)。一方英軍は1万8000人の将兵を失っているが、その大部分は戦死だった。そのため独伊軍の将兵は戦略次第で巻き返しは十分可能と考えていた。そして実際に独伊軍は今一度キレナイカ地方を奪還してエジプト領に攻め込むことになる。
キレナイカ地方東部を再奪還
戦力をある程度回復したロンメルのアフリカ装甲集団は、1月20日夜から英軍に対する攻勢を開始した。当面はドイツ軍は反撃に出られないだろうと踏んでいた英軍は不意を突かれ、次々と敗走した。ドイツ軍は1月22日にはアジェダビア、1月25日にムススを奪還した。さらにロンメルはそこからメキリに攻撃すると見せかけて英軍を陽動しつつ、1月29日にベンガジを攻略した。英第8軍司令官リッチー中将は1941年3月から4月にかけてのロンメルのキレナイカへの攻勢の時と同様にメキリに攻撃をかけてくると思い、ここに英第1機甲師団の主力を置いていたので英軍はまんまと裏をかかれる形となった。1月30日にリッチーはキレナイカの英軍にガザラの防衛線まで撤退を命じた。ロンメルはただちに英軍を追撃し、2月6日までにキレナイカの大半の地域を取り戻した。しかしムッソリーニやカヴァッレーロ元帥らイタリア軍上層部は追撃に不同意でイタリア軍は追撃に協力しないと通達してきたので追撃は不十分に終わった。英軍はその合間にガザラに防衛線を固めてしまった。やむなくロンメルの装甲集団もトミミとメキリの線に防衛線を築き、機動防御の構えを取り、両軍はそこで睨み合って停止した。
ヒトラーはロンメルの功績に報い、1月20日付けでロンメルに騎士鉄十字章の柏葉・剣章を授与し(全軍で6番目)、ついで1月30日付けで上級大将に昇進させた。また2月21日付けでロンメルのアフリカ装甲集団はアフリカ装甲軍( Panzerarmee "Afrika")に昇格した。
ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還
これまでイタリアから北アフリカの独伊軍への物資輸送はマルタ島の英海軍・空軍によってかなり妨害されていた(1941年11月にはイタリアからの輸送船の44%が沈められている)。英軍がこれほどイタリアから北アフリカへの物資輸送を妨害できたのはドイツ軍のエニグマ暗号を解読していたからだった
ロンメルは再び攻勢に出られると判断した。一方英軍はガザラから内陸部ビル・ハケイムにかけて「ボックス陣地」と呼ばれる地雷原と鉄条網の防衛線を作っていた。ロンメルはこの陣地を南から迂回して陣地の東側を北上して海まで突っ走り、ボックス陣地を陣取る英軍戦力を後方の英軍機甲戦力と切り離して孤立させることを狙った。
ロンメルのアフリカ装甲軍は1942年5月26日午後2時にクリューヴェル中将率いる囮の部隊にボックス陣地に攻撃を正面からかけさせつつ、午後9時から「ヴェネツィア作戦」と名付けた迂回部隊の本攻勢を開始した。英軍第8軍司令官リッチー少将はロンメルがボックス陣地を迂回するであろうことは予想していたが、その対応は杜撰であり、戦車の数は英軍の方が独伊軍より勝っていたにも関わらず、前任者たちと同様に戦車を集中させずに各旅団に分散させて運用した。結果ビル・ハケイム付近の戦闘で英軍第3インド自動車化旅団は早々に伊軍アリエテ戦車師団と独軍第21装甲師団によって粉砕された。ついで英軍第4機甲旅団も独軍第15装甲師団によって粉砕された。
しかし圧倒的工業力を有するアメリカ合衆国の援助を受けていた英軍はグラント戦車や新対戦車砲6ポンド砲などを動員し、これらがドイツ軍戦車に大打撃を与えていた。また英空軍がドイツ軍兵站線を的確に空爆した。
ロンメルはガザラからビル・ハケイムに伸びるボックス陣地の中間部分を西から突破して東側に広がる地雷原を掃討して補給路を作る事を決意した。5月29日にロンメルは迂回部隊の主力をシディ・ムフタ周辺に集め、円形陣地を形成させた。彼はこの陣地を「大釜(ケッセル)」と名付けた。その地域には英第150旅団が円形陣地を構えていたが、6月1日にはこの円形陣地を攻略に成功した。
その間の6月5日には英軍第8軍司令官リッチー少将が大釜陣地への総攻撃を命じた。英軍は砲撃に続いて植民地インドから連れてきたインド人歩兵部隊を前進させたが、ロンメルは対峙するアリエテ師団を後退させて誘い込み、包囲攻撃をかけてこれを撃退した。またこの英軍の攻勢中にロンメルは大釜陣地の南部の地雷原に間隙があるとの報告を受け、ここから独第15装甲師団を出撃させ、大釜陣地に攻撃をかけてきている英軍の左側面に回り込むことに成功した。この動きに連携して大釜陣地からもゲオルク・フォン・ビスマルク(de)大佐率いる独第21装甲師団が英軍を攻撃。これによって大釜陣地に攻撃をかけていた英軍3個旅団は壊滅的な打撃を受けた。
さらにロンメルは南の地雷原の隙間から戦闘団を派遣し、6月10日にはビル・ハケイムの北方の防衛線を突破。勇敢に戦った第1自由フランス旅団もついにビル・ハケイムを放棄して撤退を余儀なくされた。しかしロンメルはビル・ハケイムにこだわり過ぎたという批判がある。陥落に近づくにつれてビル・ハケイムは戦略的重要性が下がってきていたのだが、そのような場所を陥落させるためにドイツ空軍の急降下爆撃機シュトゥーカに甚大な損害を出したためである。とはいえこれにより独伊軍の補給線が南側から襲われる恐れは完全になくなり、独伊軍が英軍の退路遮断のための海岸への北進に安心して邁進できるようになった事は間違いない。<span style="color:#0000FF;">なお第1自由フランス旅団はナチスの迫害から逃れてきた人々で編成されており、ユダヤ人が多かった。そのためヒトラーは第1自由フランス旅団について「戦闘において仮借なき戦いを遂行して殲滅しろ。殲滅しきれず捕虜にしてしまった場合は秘密裏に射殺しろ」という非情の命令をロンメルに下していたが、ロンメルはこの命令を握りつぶして部下に伝達しなかった。
</span> ロンメルはビル・ハケイムを陥落させると直ちに全軍にトブルクへの攻勢を命じて北進させた。ビスマルクの独第21装甲師団は6月11日に大釜陣地を出撃し、6月13日までに英第4機甲旅団と英第22機甲旅団をほぼ壊滅させた。壊滅的打撃をこうむった英軍はガザラ防衛線「ボックス陣地」を放棄して敗走を開始したが、そのほとんどはドイツ軍の捕虜となり、また英国戦車はほとんどが鹵獲されるか破壊された。
英軍は生き残り兵を集めて部隊と陣地を作り、独伊軍のトブルク包囲を阻止しようとしたが、すでに英軍にまともな戦力は残っておらず無駄な抵抗に終わった。6月18日には独伊軍はトブルク包囲を完了。ドイツ空軍の空爆と砲兵の砲撃によってトブルク守備隊の戦意は崩壊し、6月22日にはトブルク守備隊は独伊軍に降伏した。トブルクの物資は破壊されることなく残っており、ドイツ軍がまんまと5000トンの物資と2000台の車両を鹵獲できた。
ガザラの戦いによる英軍の損害は甚大であった。英軍は9万8000人の将兵と540両の戦車を失ったあげく、キレナイカ地方全域を独伊軍に奪われ、更にエジプト領へ侵攻されることとなる。特に英軍の「抵抗のシンボル」だったトブルクが陥落したことは英独双方に精神的衝撃が大きかった。トブルク陥落によりチャーチルは庶民院から問責決議案を突きつけられている。ドイツではロンメルのトブルク入城が盛んに報道された。
世界的な英雄に
<span style="color:#0000FF;">ヒトラーは、ロンメルの戦いに感動し、6月22日付けで彼を元帥に昇進させた。それにより、ロンメルは、史上最年少のドイツ陸軍元帥となった。ロンメルは、戦争が始まる前は少将に過ぎなかったが、戦争が始まって3年足らずで中将、大将、上級大将、元帥と4階級も昇進するという前例のない出世をしていた。
ロンメルは冷めた様子で「一個師団の増援を送ってくれる方がありがたかったのだが」と述べたという。
</span>
ロンメルは、今やドイツに留まらず、世界的な英雄になっていた。連合国は、畏敬の念を込めてロンメルを<span style="color:#FF0000;">「砂漠の狐」</span>と呼んでいた。アメリカの世論調査によると、当時のアメリカでロンメルは、ヒトラーに次いで有名なドイツ人だったという。また、エジプト人の間には、イギリスの長きに渡る冷酷非情な植民地支配から、ロンメルが解放してくれるという期待感が広がっていた。ロンメルに散々戦力を壊滅させられた英国からも高い評価を寄せていた。<span style="color:#FF0000;">チャーチルは、「ロンメル!ロンメル!ロンメル!奴を倒すこと以上に重要なことなど存在しない!」と語り、また庶民院における演説では、ロンメルを「天才的な能力を持った男」と評した。英軍将兵の間にも、ロンメルへの尊敬の念が広まっていた。英軍中東方面軍司令官オーキンレック大将は「ドイツは勇猛で優れた将軍を数多く生み出してきた国だ。だが、ロンメルは別格だ。彼は、ずば抜けている」と評した。一方、オーキンレックは、部下の指揮官たちに対して「我が部隊の兵士たちがロンメルを過剰に話題にすることで、我らの友人であるロンメルが我らにとって魔術師か化け物のようになってしまっている。リビアにいる敵軍を呼ぶ時に『ロンメル』という言葉を使わないようにすることは精神的に極めて重要である。追伸、私はロンメルに嫉妬しているわけではない」という命令書を伝達している。
</span>
その後、USAのシャーマン戦車の導入もあり、ロンメルはカナダ軍のスピットファイアーに機銃掃射され、最後はベルリンで、妻も承知の上、毒薬で自殺をしたと言われている。
2011年以降、ドイツのハイデンハイムにあるロンメルの記念碑の取り扱いを巡って論争が起きているという。
語録
<span style="color:#FF0000;">「汗を流せ、血は流すな」
「指揮官は部下のなかに入っていき、彼らとともに感じ、ともに考えなければならない」
</span>
私は、兵士としてまた、人間としてロンメルを尊敬している。自民や今回のUSA同盟軍や自民や野党の連中にも彼の詰めの垢を煎じて飲んで貰いたいものだ。
<span style="color:#FF0000;">彼は、ナチス党に入る事を拒み、結局党員で無いまま、妻と一緒に毒薬で亡くなった。
</span> 此の国の兵士も、最前線でアングロサクソンUSA/UKにより皆殺しになったが、良く戦ったと思う。大東亜戦争と第二次世界大戦とで、名称は異なるが・・。
尚、最も獰猛なサクソンは、世界中を植民地支配し、原住民を皆殺しにし、USAを築いている。未だに暴力やあらゆる差別が罷り通っている。本音は黒人種・黄色人種を嫌っている。
アングロサクソンの発祥地はGermany北部で幾つかの民族が存在したが、Germany・ゲルマン民族はサクソンとは異なる。
全ての、戦死者のご冥福を祈る。
「una historia brillante 邦題 恰も煌めくかのような事件簿」
通常はTVや映画のキャラクターをそのまま用いた物語は「二次作品」と言い、営利目的での出版等は出来ないが、この作品は、読者に喜んで貰う為に似た様なキャラクターを登場させたものに過ぎず、その類では無いし、公表する目的でもない。他にも一作、寅さんものも前編・後編の一作があるので、何れまたお目にかける。
写真は帝国ホテル。
飯田晃は幕張メッセで開かれている一般社団法人日本包装機械工業会主催の「JAPAN PACK 2019」を見学に来ている。
晃はA新聞社の社会部の記者で、今日は担当記者の河合澄夫の代わりに取材をしている。
此の催しでは、包装機械、包装資材、包装材料加工機械、製菓製パン・食品加工機械、医薬・化粧品関連機械、検査機・試験機、製造加工機器・包装関連機器、コンポーネント、包装用ロボット、流通関連機器、環境関連機器など様々なものを見る事が出来る。
スーパーやコンビニなどに陳列してある食料品その他の包装資材に興味があったのでと言うのが表向きの理由だ。
話は先週に遡り、晃は都内の或るホテルで起きた事件を調査・取材していたのだが・・、先ずは其方の記事は次の様なものであった。
「・・十月二十五日の朝刊。Tホテルの客室で二十四日午前十一時五十分頃男性が死亡しているのをハウスキーパーが発見し、ホテルから警察に通報・・」
この事件を担当する管轄署は丸の内警察署だが、何故か警視庁捜査一課が扱う事になった。
警視庁の発表では死亡したのは都内M市にある大手のM商事会社勤務の男性54歳・・・、死亡原因は四階の客室内にいたところを銀座西五丁目のNビルの屋上から狙撃されたようで頭部貫通の即死。
被害者の所持品であるバッグからは、会社関連の書類とS包装会社の試作した幾つかの製品が載ったファイルとDummy(試作見本)が見つかった。
Nビルの屋上からは硝煙反応が出た。
使用された銃は不明。7.62mm弾が窓ガラスを破り被害者の頭部を貫通し発見された。
Nビルから被害者までの間には首都高速とJR高架線路があるが、距離は数百メートル。
何処かの軍隊等に所属していた者の犯行とも思われるが、その意味では加害者はある程度限定されるので、警視庁が警察庁を通じて外務省とも連絡を取りながら直接捜査する事になった。
晃は警視庁の表で同窓生の総務部広報課課長中多美紀と会った。
彼女は叔父が被害者の商事会社の社長と知り合いだと言う。
晃は、SATの模擬狙撃の捜査の模様を見に行った。
見慣れた顔、隠匿係の今川義元と真田幸村の二人も一課とは別に来ていた。
晃は美紀にそれとなく被害者の勤務していた商事会社から、被害者の携わっていた業務と取引先である被害者の所持品のファイルとDummyについて聞いて貰えないかと打診してみた。
美紀は同窓時代に晃と恋仲になっていた事もあったから、満更赤の他人では無いしとは思ったのだが・・。
美紀は笑みを浮かべると、「私は、現在は警察官ですからね」と前置きをしてから、口に人差し指を充てると、「実は、同じ事を、貴方だけで無く、ある人からも依頼されているから、分かり次第報告しなければならないのだけれど、其れも表向きの話では無い様だから、まあ、ついでにという事で・・」と、片手を振ると自分のデスクに戻って行った。
晃は、美紀が消えた警視庁の表示を見てから視線を上階に移すと呟いた。「そんな事言うのは、多分、あそこにいる義元さんくらいじゃないかな」
其の晩、早速美紀から連絡が来た。
「ファイルとDummy(試作品)は化学兵器用の防御Maskと防護服、其の兵器を完全密閉する容器の様で、新型化学兵器に対する対策の為に試験的に必要だったUSAのある部署からの受注だったみたい。
ああ、化学兵器と言っても色々あるんだけれど、・・・・・・・・・・・合成オピオイドから派生した・・・・・・(すなわち化学兵器)の一種で、暴露後1〜3秒以内に効果を発揮し2〜6時間意識不明にすると言われているものなど。この・・は・・・・・・・・・で使用されたことで・・・なったんだけれど、人質・・人のうち・・人が・・・・・・したことからその非致死性については疑問視されているようなの。・・・・・は事の全容を明らかにしていないのだけれど、・・・・・・カルフェンタニルとレミフェンタニルが検出された。前者はオピオイド系鎮痛剤フェンタニルのアナログ、後者は超短時間作用性の合成麻薬。効能・効果は「・・・・・・」であり、・・・・・・。だから、かなり画期的に改善された新型・・・というか、・・・・・の様なものに使用される完全密封容器のDummyだった様なの」
晃は其れでかと頷きながら、拳を握りしめる様にすると、「現代では・・・とは、・・などの・・・・・により、人や動植物に対して被害を与えるため使われる。『・・・・・・』では、・・・・・・や、それを放出する・・・・・も含むものとしていて、・・・や・・・・・などの・・・・・・を用いる場合は、・・・・・ではなく・・・・・に分類されることが多いね。此の国でもオウム真理教事件でサリンを使われたが、今時そんなものを造って実戦に使用するのはテロ組織でも無い。・・・・・・止条約に違反しない程度の ・・・・・・と呼ばれていても、・・・・・・・・・・・・・・・・・・文字通りの死亡の危険がないわけではなく、濃度や暴露時間などによるため分類は相対的なんだけれど。USAはおそらく・・・・・・の研究と対処方法の為に実験材料として使用する際の「容器」の受注をした可能性はあるな。此れはスクープと言うよりも、機密として公表の仕方は難しいな。分かった、其れで、肝心なそれらの製造元なんだけれど、何処の会社なの?」と、美紀が、「パンフに記載のあった『・・・・・という・・・などを作っている会社』らしいわ。今度の「JAPAN PACK 2019」に出品する可能性があるから、見に行った方がいいんじゃない」
「それって、兵器とは縁が無いいろいろな包装容器や収納関係に使われるモノなどの会社が出店する催しなんじゃない?・・うん?そうか、此の国の技術はハイレベルと言われている・・、あり得るな。盲点かも知れない・・」
晃が幕張メッセの中を物色していると、見慣れた顔の人物が・・。
「ああ、お久し振りですね。でも無いかな。あなたはどうして此処に来たんでしょうか?ひょっとしたら・・」
晃は、微笑んでいる義元の目を見ながら、「う~ん、記者の勘とでも・・言っておきましょうかね・・、ところでお二人共、やはり・・ですか?」と言うと、幸村が、「義元さんが行きましょうって言うもので、先程会場の案内を見たら、『・会社』のボックスはこの先ですよ。どうせ・・、そうなんでしょ?なら、一緒に、と行きますか、ねえ、義元さん」、義元は相好を崩すと、両手を後ろ手に組むなり歩き始めた。
・会社のボックスのフロントではコマーシャルレディーが、・社の製品に興味があり覗いたり質問をしたりする客の相手をしている。
電光掲示板が、「・・常識をくつがえし、・・・の未来を変えていく。 「・・」ことのスペシャリスト。 それが私たち「・」です。 時代の変化とともに、・・・・・のありかたも変わり続けています。 業界の先頭を駆けるフロントランナーとして、 これまでの常識にとらわれることなく ・・」と文字を流している。
客の殆どは・・や・・・などの関連会社や商社など興味のある人達の様だ。
幸村や義元も客に混ざって商品の一覧の中から事件に関係のある商品を探してみたが、流石に・・Protectに関する類のものは極秘なのか、展示会場には見当たらない。
晃と幸村が宛が外れたかと顔を見合わせている隣では、義元が・会社の会社案内のパンフを手に持ったまま暫し黙している。
幸村がどうしたのかと思って義元に声を掛けようと・・するまでも無く、義元が口を開いた。「殺害された・・は大手商事会社の営業部長でしたから、ありとあらゆる商品を扱っていてもおかしくはないですよね。ですから、其の会社を調べたところで埃も出ないでしょう。・・Protectまで受注を受けたところで闇勘定にすれば社内でも其の取引を知る人間はごく僅かでしょう。其れよりも直接の生産者であるメーカーの方が商品の種類からして絞り易いかも知れませんね」
其の義元が手にしている会社案内に記載された文字に二人の視線は集中した。
・会社の社長の名は「・零・」。
晃がiPhoneで苗字の検索をしたところ、・会社の本社及び営業所が網羅されている・県に九十名程、・・に九名、・・にも三名、全国でも珍しい苗字である事が分かった。
晃が美紀から聞いた話では焼津市に、案内にも本社は・・・・・から・・・に移転されたとなっている。
被害者の住まいは・・だが、・会社の営業所は・・にもある。
晃が義元を見ながら、「成程、此れが偶然なのか・・、其れとも・・」と、義元は頷くと、「ぶんやさん(新聞記者)の勘で何かに行き当たりましたか?」
晃は頷きながら、「私は・市にある・高校の出なんですよ。・・の大学に入学まで・市にいたので、・・・・・には詳しいですから、具体的な商品の確認に取材に行ってみますよ。・新聞社の課長や・中央警察署署長は同窓生ですから協力して貰えるかな?警察官では無いしな義元さんからも連絡しておいては貰えませんか?管轄外だから難しいかな?ところで、遺体はまだ司法解剖等で安置室ですか?」
義元が、「其れは葬儀は何時かという事でしょうか?葬儀に行けば社長の・・さんも来られるかも知れませんね。若し親族であれば・・。・・までは?私も隠密の身のようなものですからね。遺体の状況については、鑑識の織田さんでも分かるでしょう、葬儀に付いても至急確認しておきましょう」
亘は、二人の会話を聞いていたが、「其れなら決まりですか?先ずは事件に関係する取引商品は、被害者の遺留品であるパンフレットの・・Protect、つまり、マスク・・・・・・の密閉容器は・会社にM商事会社が発注した。後は取引の実態の裏付けを取るだけ。其れから、USAが試験的な目的で其の商品を必要としていて、最終的には其れがどうして殺害事件に繋がったのか?其の加害者は?・・、あれ?義元さん・・?」
義元は口に人差し指をあてると小声に変え、「・・其処にいる男、話を聞いている様ですね。私達と同じ目的で・・」と、其の男が突然ボックスの人混みから離れて早足で歩きかける。
「幸村君!」
走り出した男を、義元と幸村が追い掛ける。
晃もスクープかと思い、二人の後を追い掛ける。
男はメッセの中を人を突き飛ばしながら逃げまくる。
幾ら大きなメッセでも出口は限られている。
男は三方から追い詰められ、拳銃を取り出した。
その場の四人の動きと拳銃を見て、群衆は悲鳴を上げながら雪崩の様になり避難しようとする。
「!(ちぇっ、こいつら死ね!)」
男が発砲しようとする寸前、幸村がタックル、続いて義元が身体を押し曲げながら男の腕を捻ると、素早く手錠を掛ける。
晃のフラッシュが焚かれる。
義元が暴れる男に試す様に、「・・You had done something ridiculous!~とんでもない事をしましたね!」。
大人しくなった男と二人を見比べる様に晃が、「通じるんですね」と、義元が、「CIAですよ。実行犯じゃない。今はこんなのがうじゃうじゃ動いていますからね。舌を噛まれちゃ・・。」と言いながら、男の口にハンカチを突っ込む。
晃は、・県に向かった。
・会社には、前以てアポを取っておいたから、専務が出て、取材に応じてくれると言う。
専務は、「M商事からの発注で、何も怪しいものを提供している訳では無いですから。どうぞご覧になって下さい。警察署からも連絡があったようですが、では、出掛けましょう」と、・社のロゴが横腹に書かれた社用車でF営業所兼工場まで向かった。
工場内ではいろいろな製品に混じって、該当するモノを見る事が出来た。
晃はなかなか見る事が出来ないだろう貴重な製品を見せて貰ったが、企業秘密に係る事なので話を聞くだけで写真は撮らなかった。
専務から、「社内の会議で、これ等の製品については聞いていたが、具体的にどの様に使用するのかまでは知らず、注文通りに優れた技術を駆使してニーズに答えるのがメーカーとしての義務であるし、詳しい事は分からないが飯田(晃)さんの話から想像する限りでは、世界の平和に役に立つ・・ですか・・」との返答を得た。
事件の事は承知で、非常に残念な事だ。被害者は社長の従弟にあたり、社長は・・営業所に出張がてら、明日、従弟の葬儀に出る予定になっているとの事だった。
葬儀の件は晃も義元からの連絡で聞いていた。
晃は、製品を見る事によって事のイメージが湧いてくる様な気がしたのだが、あくまでも・・・製品だから、改めて、・・・を使用する組織や国に対する防備の研究の為に使用するのだとの思いを感じた。
被害者の葬儀には義元と幸村も来ていた。
葬儀には・社から・・営業所の所長と社長が参列したようだ。
義元が社長から聞いた限りでは、他の同業者にも声を掛けたようだが、・社の技術度を考えての受注に至ったらしいとの事であった。
葬儀の終了間際に行ったから十分に話を聞く事が出来た。
・社の現地での件については、晃が義元に報告をしておいたら、やはりM商事にあたるという事になった。
三人は挨拶をしてからM商事会社に向かった。
Ⅿ商事にはアポを取ってあったから、海外担当部門が調査に応じてくれた。
対・・空間用のものだけに高度な技術を必要とするのだが、海外でも難しいと言われている様に、結論として一社しか製造出来ない事が分かった。
M商事としては、今回の事件についてUSAの発注元に報告しているところだとの事だった。
帰りの車中で、晃は、此処まで捜査一課とは全く会う事が無かったが、その辺りに付いてはと心配をしたら、義元が上手く警察庁長官クラスの上層部から官房長官付きの奥手警視監を通して、競合はしないようにとの条件付きで命令を受けているとの事だった。
晃は、今回の事件に限らず本来は、当然ながら警察の公開発表上でしか聞けない事になっているから、その辺りは充分含んで取材する事を守り、事件の全容が発表されるまでは写真や記事も控える事を約した。
「ところで、残る疑問点は一体誰が加害者なのか?それと、今後も・会社が製造を続けるのか、それとも中止になるのか・・?」と、幸村が運転をしながら話した時、助手席の義元のスマホが振動し、ほぼ同時に晃のiPhoneも・・。
「はい、義元ですが・・、あっ・・やはり・・怖れていた事が・・、分かりました」
義元はスマホをしまいながら、幸村に、「幸村君、此れから・市まで直行できますか?私は急いだほうが良い様な気がするので・・今午後零時を過ぎたばかりですから、時間は十分にありますが・・・」と、義元のスマホの内容がどんな事だったのか、晃も自分宛に・新聞社から掛かって来た内容から、凡その察しがついた。
三人は・・高速の車中で、二人に寄せられた情報を話す事になったのだが・・。
先ず義元が運転中の幸村に、「奥手警視監からですが、・・警から連絡が入ったそうで、・会社の工場が何者かに襲われたらしいのですが、今現場は・・機動隊が取り囲んでいるようなんです。幸村君、『拳銃の用意は宜しいですか』・・ああ、運転中でしたね、失礼」と、遅れて晃が、「私にも・新聞社から連絡がありまして、現場付近の道路は封鎖されている様で、田舎町ですから、地元住民も非難したり大騒ぎになっている様ですよ」と、義元が、「飯田さん先日見学・・いや・・取材に行かれたんですよね・・」其の会話が終わるまでも無く晃が、「ええ、ですから、場所は分かります。・・インターで下りて・・号線を・に向かったところにあります、道案内は私が・・」
三人の乗った車が・・号線を進んで行くと、・・川の手前から・・号・・・・号線の辺りは・・の機動隊が全面封鎖をしている様で、進めないから、一旦近くにある・・の本社迄戻って駐車場に車を停めると、社員に車で現場まで送って貰った。
晃が見物人に混じって見守る中、義元と幸村は・・の責任者の山本警部に手帳を見せて状況を窺った。
山本が敬礼をしながら二人に説明を始めた。「ご苦労様です。今日午前中におかしな連中が三人本社に入るなり工場の所在と『容器』は何処かを尋ねながら、拳銃をチラつかせたそうなんですよ。連中はすぐに工場に向かったのですが、すぐに110番通報がありまして、拳銃を持っているとの事なんで、機動隊の出動となったのですが。あそこの工場の窓は見えますか?あの窓の隙間から中が見えるのですが、責任者の増田工場長が人質になって製品の事をいろいろ尋ねている様子が分かります。
咄嗟の判断で工員の殆どは逃げています。その際威嚇射撃があったようですが、工員に怪我は無かった様です。ああ、それで、連中はどうも・・では無い様なんですが、仲間同士で話す時には英語を使ったと脱出した工員は言っております」
義元が頷きながら、「そうでしたか、先日の逮捕した者の仲間か・・。いや、此れは此方の話なんですが、失礼。おそらく間も無くSATの登場になると思いますが」と、山本が、「メガフォンで投降を呼びかけたのですが、教えた番号にスマホからの連絡があり、連中の要求は増田工場長を人質にとったまま製品のDummyと製造関係の書類を持って前に止まっているトラックに乗って逃走しようという訳なんですが・・」。
幸村が工場と周りの状況を見回しながら、「此の包囲網を突破して逃げるのは無理だな。仮に逃げたにしてもいきなり海外に行くには空港まで行かなければならないが其れは無理・・、何処にも逃げようが無いでしょ。どうするつもりなんでしょう・・、あっ、義元さん、ひょっとしたら?」。
山本が、「本当は、連中は製品や書類を持ってすぐに、我々が到着する前に交番の警察官なら、発砲して逃げるつもりだったらしいのですが、増田工場長がわざと時間を掛けてそれらのものの所在を明かさなかったから、我々が間に合ったと、逃げられた工員から聞いています。暫く出方を見て、場合によってはSATの強行突入となるかも知れませんね」
幸村は晃に此処から港は近いのかと尋ねた。
晃が、「此処から・・港まではすぐですが、・内でも有名な・港ですよ・・?」
幸村が義元にその旨を伝えると、義元は頷きながら、「逃げ場と言ったら・・か無いですからねえ。・・なのは彼等にとっては却って好都合かも知れませんねえ」
義元は・語で投降を呼びかけて、「決して悪いようにはしないから」と言いながら・・・の様子を窺った。
義元は人質の交換条件を出した。
増田工場長を開放する代わりに、自分ともう一人が人質になるからとの条件だった。
・・・は最初は拒否するような素振りだったが、人質が増えるのならと考えたのか、「応じる」と返答をした。
ただ、条件は当然ながら拳銃を持っていないか身体検査をするという事で、拳銃は彼らの目の前で山本に手渡してから両手を挙げ乍らゆっくりと工場内に入り、無防備な事を示した後身体検査を受けた。
それ以前に到着していたフォアグリップとレーザーホログラムサイトを装着したMP5Kを手にしたSATと打ち合わせをしていた。
SATは更に、海上保安庁特殊警備隊(SST)にも連絡をとった。
義元と幸村が工場内に入り両手を挙げ乍ら近付いて行く。
連中は製品や書類を工場の彼方此方から集め、脱出の準備をする。
其の荷物だけでも手に持っては逃走の邪魔になるからと、人質の二人に荷物を持つように指示をしたので、二人は言われるままに荷物を抱えた。
荷物の中には工員から聞いていた余分なものまで。
普通なら此処でSATが狙撃或いは突入するところなのだが、打ち合わせどおり人質二人を挟むように実行犯が拳銃を人質の頭にピタリつけながら工場の前に止めてあったトラックに近付く。
周りを取り囲んだSATや機動隊に道を開けさせると、・社のロゴが見えるトラックに素早く乗り込んだ。
トラックは幸村が運転を命ぜられて、目的地焼津港まで進む。
SATを乗せた車も裏道を猛スピードで走って行く。
幸村は時間を稼ぐ様にゆっくりとトラックを走らせた。
誰の目にも・が見えて来た。
静岡県焼津港は有名な漁港であるから漁師が操業をしていたりするのだが、時間的に殆どの漁船は操業中で・には見慣れない原子力船が見えた。
トラックの揺れに身をまかせながら義元は以前起きたある出来事の事を考えていた。
其の出来事を報じる戦国新聞の文字が義元の脳裏を流れて行く。
「・・産の・・・・・に関わったとして・・・・・・・措置をとった・・・3隻が、その後1年間で・・に少なくとも計数回近海を訪れたことが分かった。」
義元が夢から覚める様に我に返った時、トラックは漁港に到着した。
実行犯が二人を小突くように待機していた原子力船に乗る事を促した。
二人は荷物を抱えながらゆっくりと、波に揺れている原子力船に乗り込んだ。
最後に二人を監視しながらmaddahの一人が乗り込んだ後、すぐに原子力船は港を出・沖に全速前進。
晃は、・会社の社員に送って貰って・までは来たのだが、残念ながらそこから先には進めない。
晃は突然おかしな事を思い出した。
此方に東名高速で向かう途中の車内で、義元が幸村に言った言葉を。
「確か、『幸村君、拳銃の用意は宜しいですか』だったが、拳銃が使えない可能性は前以て分かっていたとすると・・、あれは、ひょっとすると、何かの暗号だったのではないか」と、記者の勘がそう言わせた。
原子力船の中にも自動小銃を構えた奴らが数人いた。
SATはSSTが用意した巡視艇に同乗すると、遅れて後を追う。
沖には国籍不明の艦船がほぼ並列状態で微動している姿が見えた。
原子力船は計画どおり彼らに近付き並んで航海している。
原子力船から幅の広いエスカレーターが下りてくると、実行犯達は次々に乗り込んで行く。
二人もエスカレーターを伝い乗り込んでいく。
荷物は二人が持ったまま上がって行く。
全員が上がり終わったところで、艦船が動き始めようとした時、SSTの巡視艇が猛追撃で追い付いた。
SSTからスピーカーを通じ、停止命令が出た。
原子力船は逃げようとしたのだが、其の前方には海上保安庁の巡視船が立ちはだかった。
巡視艇の小振りな砲身がぐるっと回ると照準を艦船に合わせる。
SSTの巡視艇が艦船に横付けされ、SATなどが乗り込んで来る。
自動小銃が火を噴くかと思われた直前、義元は幸村に何か呼びかける。
数で圧倒するSAT達の攻撃を予測したCIA諜報員達は戦闘態勢に入り、人質にまで手が回らない。
幸村が両足の靴の底の中に潜めていた超小型の催涙銃を取り出すと其の一つを義元に放ってよこした。
義元は、工場から持って来たモノの中から、小型消火器を片手に、もう一方の手には催涙銃が握られている。
機先を制しての二人の攻撃が始まった。
まさかの背後からの不意打ちに諜報員数名が催涙ガスを浴びて戦線を離脱せざるを得なくなる。
ほぼ同時に対面するSAT/SSTと諜報員達の自動小銃が火を噴いた。
転倒したCIAに二人が手錠を掛ける。
残りの諜報員も銃撃戦で次々に倒れる。
洋上commandは完全に決着がついた。
其の時、・・からSSTの巡視艇に無線が入っていた。
謎の機動部隊の目的は、此れでは無かった。
上空を航空自衛隊の戦闘機F-15(俗にUSAと日本ではイーグルと呼ばれる三十年前の機体)三機があっという間に到着し上空を・・。
無線からは、「航空母艦クイーンエリザベスが接続水域航行中。レッドゾーンの外側に沿って航行船舶に、即告去るように警告中・・」と、自衛隊機が航空母艦に急接近し、あわや戦闘状態に・・。
其の後二国の艦船は黙したままレッドゾーンの外をラインに沿って移動し始め、単なる示威行為でおさまった。
義元と幸村、其れに晃、おや?中多美紀も、の四人が、内幸町にあるホテルの高層レストランで飲食しながら話をしている。
先ずは義元が乾杯の音頭を取りながら、「今回のUSAによる化学兵器製造に繋がる日本の技術は守られましたね。警察庁からの非公式な情報では、USAも・テストを中断する事になったという事ですよ。技術の進歩が、逆に、化学兵器に使われては意味が無いですからね。良い物が悪い事に使われては本末転倒というもの、・社はその技術を世界に示した訳ですから、今後も平和産業のリーダー格として先陣をきって行く事でしょうね。まあ、何れにせよ、丸く収まって良かった。其れでは乾杯!」と乾杯の後、美紀が飲み干したグラスをテーブルに置いて、「化学兵器は禁止されているもの。ベトナム戦争でも使われたけれど、結局子供達の様な弱者が一番被害に遭う事になるのだから、世界から追放すべきね」と言えば、晃が、「其れはそう幸村さん、お手柄だったじゃない。CIA相手にまともに戦ったんだから、調理係も大したものですね」、グラスを片手に持ったまま片手で頭を掻く様な仕草で幸村が、「偶々ですよ。話は飛ぶけれど、最後に自衛隊の戦闘機、あれは旧型と言う人もいるけれど、性能は、基本設計の優秀さとレーダーをはじめとした電子機器、搭載装備の近代化が進められ、現在でも能力的に最も均衡のとれた、信頼性のおけるトップクラスの実力を持つ戦闘機といえるそうですけど、航空母艦相手に、互角に意思表示が出来るという事は、素晴らしい、もう日本は新型などの導入は必要無いですね」、アラカルトの料理を摘まみながら晃が、「そりゃ、やはり、進駐軍・GHQが押し付けた平和憲法を何とか遵守して来れた国なのだから、世界でも戦後一度も紛争に至らなかった国は我が国だけじゃないかな。ある意味では、何故参加しないのだという国々の非難の声を撥ね除けて来れたが、其れは憲法を大事にしたからだという事に尽きる。敗戦の教訓を生かしながら『「広島の惨劇は繰り返すな」という意味の "No more Hiroshimas." 最後にSをつける』を世界中に訴えた。
しかし、USAのバイデンは広島サミットで被爆地を訪れた際「・・絶対謝るものか・・」と言い放っている。
本来、政権がもっと外交手腕に優れているのであればという事に繋がる訳なのだが。例えば、国交の無い国などには別のルートを通し交渉をすれば、例の難問も解決に至るという事を知らない(勿論Give and takeは必要~実は人類は私利私欲に走るもの。
そこで、西側諸国のみにあらず、東側諸国とも互いに交易を行う事で、利益を供与した国とは争わない、は当然の事。つまりは日米安保条約は破棄し、何処の国とも友好条約を結ぶ事と、永世中立国になる事が、この国にとり最も利口で重要な事と言える。
他国を色眼鏡で見ていれば何事も進展する訳が無い。いらずパートナーのUSA及び関係国が妨害。)。また、これ以上は軍備の拡張をすべきでは無いですね。戦国新聞の記事を見ても専守防衛が失われつつあり、敵地攻撃など全く幻想と。其れでなくとも発癌物質垂れ流しUSA基地の問題が今回の化学兵器に関連していたとはUSAは自国内で被害が出るのを怖れ、此の国の基地は治外法権ですから何をしても一切分からない、その為に全く逆の仮想敵国というのは読み違いというもの。
中立国であれば軍隊はいらず、無意味な・・兆もの防衛予算を国民の血税補填に充てれば、まあ、中立国が理想で、何処の国とも友好条約を締結し平和で国民主権の国造りが出来れば最高ですね」
実はこんな事が言える。
「この国の現代の世代間では、性犯罪やいろいろな犯罪に満ち溢れ電車内も防犯カメラだらけ。昭和の時代には電車内やバス停などで、母親が乳房を出して赤子に授乳する姿が見られた。ところが・・現代は逸れどころではなく、巨乳などの言葉が乱用されているし、カスハラのように言葉を省略するのは此の国だけ。Z世代と使用するのも無知な証拠で、明治時代の日露戦争で、当時世界最強と言われたバルティック艦隊と戦う際に、艦船にZ旗を掲げた理由は、アルファベットの最後の文字はZであるから、この後は何もない、油断をせずに菱で戦えという意味で掲げられた。という事は、Z世代と使用すれば、もう後がないこれで国民はお終いという意味になる。また、昭和の時代は犯罪もあったが、現代に比べれば景気が良く、銀行の十年定期預金では、元本が二倍になった、つまり、五千万円が一億円になる、勿論、利息には課税されるが。全般的に言える事は、進駐軍がこの国を統治した際に教育やら法律を無理やり押し付けた。ところが、戦前の厳しい教育の基で育った百歳以上の国民には、それくらいに柔軟に対応するだけの能力があった。それに比べ、現代人は平和の基で、押し付けられた教育が常識だと思いながら成長してきた結果、治安が悪くおかしな社会になってしまったという事である。つまり、進駐軍が行った事は半分は良いとしても、半分はこの国に適していなかったと言えることになる。」
突然、聞きなれた声が。「おや?調理係のお二人さん・・うん、総務迄・・、こんな値段の高いホテルで宜しくやっていていいんですか?景気が悪くなって、非常勤公務員も減らす(またこの約一~ニ年前の予言通りになりそうだが。)と言う声が国民から聞こえているのに・・」
捜査一課の黄門達も現れた。
義元がフォークの料理に口を添えながら、「黄門さん、今回は済みませんでしたね。ご活躍を奪ってしまったようで、誠に心苦しいばかりですが・・」と、美樹が、「此の料理美味しいわよ。黄門さん達もどう?心配しなくても、今夜は全て晃さんの お・ご・り!、スクープで金一封を貰ったからって、民間会社もいいところあるわね。国民の税金で国は成り立っているのだから、もう、その上に胡坐をかいている簡単な資格試験合格の上級国家公務員なんて自慢できる時代は終わったって こ・と・か・な!もう一回乾杯しましょうよ、黄門さん達もどうぞ一緒に」。
黄門達も満更では無いという顔付で、「それじゃあ、私達もお相伴(しょうばん)といきますか。おい、この際、格好つけてる場合じゃ無いって!また先を越されて食べられてしまうよ。有難く戴かないと、ねえ、警視殿?」。
辺りは薄紫色に暗くなり、臙脂の絨毯の上の人々が浮かれた様にホテルの照明に映える時、街の灯りは負けじとばかりに、色とりどりの宝石の様に美しさを増していった。
「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」
「All persons fictitious disclaimer」
「Fictitios omnes Terms」
「이 이야기는 소설이며 실제 인물 · 단체와는 전혀 관련이 없습니다.」
まだ購入した楽器に慣れていなかった初期の下手な演奏から「パイプオルガンシンセアントニオ」を。